Serenita

感情の消化。

【世界一周】#41 大好きな人たちに会いに行く旅 〜LAから東京へ〜

今回の記事の大枠(大文字部分)

羽田→シンガポール→ロンドン→ブリュッセルアムステルダムブリュッセル→ロンドン→バルセロナマドリードパナマ→アルバ→キュラソー→アルバ→パナマ→ヒューストン→ダラス・フォートワース→ロサンゼルス→成田

前回の続き…。空港泊が明けて。

 

ZIPAIRで東京へ

翌朝もLAは大雨だった。9時前からチェックイン。長距離フライトを前に疲労困憊の私。今回はLAから東京間を話題のZIPAIRで飛ぶ。ZIPAIRは2020年にできたばかりの新しい日本のLCCで、JALの子会社でもある。就航し始めて3年がたっているが、コロナもあり、まだ乗ったことがある人は少ないのではないか。

 

ちなみに私はLA→東京の片道を4万6000円で購入し、荷物と食事1つのオプションを追加して6万1000円だった。LCCといえど、片道にしてはそんなに安くないのだが、他と比べたらマシ?くらいな価格設定。

 

チェックインの列はほとんどが日本人で、すでに日本を感じた。私はここで再度荷物超過に引っかかったのだが、もう最後なので超過料金を払うことに。基本1万円くらいが相場だと知っているので、絶望だったのだが、なんとこれが18$(=2484円)で済み、私は無事ZIPAIRのファンとなった。

 

お次は荷物検査。…っとここでトートに入れていたキャンドルが引っかかる。(昨日もそれでDFWの検査通過してますよ??)検査官に「Do you mind if I open this box?」とキャンドルの箱を指され、「Yeah, sure!」と応じたが、これは本当は間違い。「Do you mind〜?」と聞かれて、良いのなら「No」と答えなければならない。頭では分かっていても、咄嗟に出てこない英語力が悔しい。もちろん「Yeah, sure!」と言っても、雰囲気で通じていたのか、検査官が迷うことはなかったが。

 

後日例の元彼アメリカ人くんに聞いてみると、「Do you mind~?」構文はネイティブでも間違うことがあり、「Yeah sure.」と答えても実際問題ないらしい。だが、彼なら「No, it's fine.」「No, go for it.」と言うと言っていた。(メモメモ)

 

検査を抜けた先のスタバで朝ごはんを調達しようとしたのだが、このスタバが大混雑。とても待ちたくないので、私は普通のカフェでサンドイッチを購入。サンドイッチとアイスティーで14$、1923円也。なんて高級な朝ごはん。

 

空港の店員はほとんどがスペイン語を話す移民だった。みんな朝からペチャクチャおしゃべりに忙しく、滞る業務ヨ。

 

旅をして変わった(?)自分

あとは搭乗時間まで暇つぶし。ゲートの前には続々と日本人が集まり始めていた。トイレに行きたくなってきた私だが、巨大トートが邪魔の極み。歯磨きもしたい。

 

そこで、隣に座ってきた、いかにも大学生っぽい1人でいた日本人の男子に、「トイレ行きたいので、荷物見ててもらっても良いですか?」と声をかけた。彼は「良いですよ。」と快く受け入れてくれた。

 

考えてみたら私は、行きのシンガポールの乗り継ぎ時間に、目の前に座っていた日本人女子3人組に声をかけることができなかったではないか。1ヶ月半前の自分が懐かしい。これぞ旅の効能?荷物がないおかげでゆっくり歯を磨き、顔も洗うことができた。

 

戻った時にお礼を伝えたが、彼はLAで1人で何をしていたのだろう。もう一言何か言えればおもしろかったが、その後は一言も話さなかった。

大雨のLA

ZIPAIR搭乗記

若干遅延していたが、ほぼ定刻に東京に向けて出発した。LCCというとげき狭なシートを想像するが、ZIPAIRは十分ゆとりがある。画面は付いていないが、スマホを置く場所がついているので、事前にダウンロードしておけば好きなものを見ることができる。

 

東京までは11時間ほどのフライトだったと思うが、ブランケットなどのアメニティのオプションを付けた人たちは全体でも20〜30人ほどに見えた。長距離のフライトなので、食事は全員付けているだろうと思っていたが、半分ほどが受け取っていなかったと思う。ちなみに食事のオプションはIKEAみたいなラインアップで、チケット購入時に選択する。私はほうれん草とチーズのラビオリにした。とても美味しかった。食事を頼まなかった人たちは、アメリカのスーパーで購入したのか、お菓子を食べている人が多かった。飲み物は比較的みんな持っていた。食べ物は空港で買うと高いので、事前に仕入れておけば確かにオプションいらないかも。

美味しかったけどね。

なぜかIKEAっぽいと思ってしまう機内食のラインアップ

最近のLCCは、画面がなくてもフライトマップを見られるように、機内Wifiを飛ばしてスマホで確認できるようになっている。一応ZIPAIRはLINEなどのメッセージに限れば、機内wifiが無料なのだが、繋がらない時もしばしば。ただ、機内で制限時間を気にせずにメッセージを送ることができるのは良い。私も家族とLINEしたりしていた。

こんな感じでフライトマップをスマホで見ることができる。

それとCAさんの制服が黒に緑の差し色ですごく可愛かった。ヒールではなく、スニーカーで働いているところも良い。日本のCAといえば、お団子をキツキツにしているイメージだったが、ZIPAIRではお団子にしないでポニーテールの方もいて、CA独特のキリッとさがなくて本当に素敵だった。私はこの多様性の方が好きなんだと思う。

 

ただいま東京

成田にはほぼ定刻に着いた。日本の航空会社なのでアナウンスはもちろん、日本語と英語なのだが、到着時には季節感を感じさせる説明があって素敵だと思った。3月の中旬だったため、確か「富士山の雪解けが進み、桜の開花が進んでいる日本へようこそ〜」みたいな話だったと思う。快適すぎた。ZIPAIR、とても推せます。

 

シートベルトサインが消え、上の棚から巨大激重トートを下ろす。行きの機内で中身をぶちまけた話を書いたが、もうすっかり慣れたもの。そのトートを見て、通路を挟んで隣に座っていた高齢の男性に、「その量を1人で運ぶって…すごいなあ。もう旅慣れてるのかな?」と声をかけられた(苦笑)そしてその男性は私の返事を待つこともなく、奥さんと見られる女性に、「もうこれが海外旅行最後だな、」と話しかけていた。なんだかちょっと切なくて、でも素敵だと思った。

 

私が帰国したときはまだワクチン証明が必要だったため、空港を出るまでに多少時間がかかったが、思っていたよりもスムーズだった。早速空港のトイレに駆け込み、はあ〜キレイ、日本好き。となった(笑)

 

成田空港から東京駅までバスで帰った。自販機で買った午後ティーがすごく美味しかったのを覚えている。

 

さて。東京の自宅に帰って気づいたが、スーツケースの中身がびしょ濡れだった。「湿っている」のではなく、絞れるくらいに。水を吸った衣類のせいで、重さも増していた。LAが大雨だったことを思い出す。恐らくLAの空港職員は、長時間スーツケースを外に放置していたと思う。

 

信じられない事態で私は絶望だったが、それがこの旅の最後の話。

 

世界一周が終わって

この旅で得たことは本当に大きくて、かけがえのないものだった。実はヨーロッパから先、本当に飛行機は飛んでいるのか不安で、東京行きの便に乗るまで、計画通りに全てが進むとは思わなかった。毎日未知の出来事との遭遇で緊張していて、日本に着いたら何か大きな行事が終わってしまったような感覚で。だから帰国して2週間ほど、燃え尽き症候群になってしまった(笑)ただそれでも旅に出てよかった。

 

誰かに会いに行くことは、誰かの愛を受けに行くことでもあるし、どこかに行くことは、ここではないところに自分の居場所を作ることでもある。それがどれだけ素敵なことなのかは、経験した人にしか分からないことかもしれない。

 

世界は旅すれば旅するほど知らないところが増えて行くという矛盾で、ここも行ってみたい、あそこも行ってみたいというところが今回もたくさんできた。だからまたきっとすぐ旅に出てしまう。(すでに夏休みにまた飛んでいた笑)

 

一方で、10代の頃は海外に住んでみたいという気持ちが大きかったが、今は日本に帰ってくる度に、日本の清潔さ、安全さ、正確さが本当にすごいなと思ってしまい、日本って良いな〜と思う。たぶんこの3つのものって、年を重ねるごとに自分の中での重要性が増してくるものなのかもしれない。

 

次の記事に、使ったお金を書こうかと思っているが、今までずっと貯めてきたお金のほぼ全てを使ってしまった。とはいえ、自由に使えるお金が決して多くない学生のうちに、ギリギリの旅をしたことで、これからの人生で本当に大切にしたいものを大切にできる気がする。

 

この先の日常生活も豊かなものになるように、一瞬一瞬を大切にしたい。見るもの、聞くもの、触れるもの、感じるもの1つ1つ、敏感に感じ取って、自分の感性を研ぎ澄ませられたら、きっと日常生活の中でも、小さな幸せとか、人との巡り合いとか、いつもは気付けない奇跡に心を動かされることがあると思う。心が動く瞬間が、人生を変えるのかなっていつも思ってる。

 

世界は本当に本当に美しかった。

 

 

【世界一周】#40 大好きな人たちに会いに行く旅 〜LAの空港泊〜

今回の記事の大枠(大文字部分)

羽田→シンガポール→ロンドン→ブリュッセルアムステルダムブリュッセル→ロンドン→バルセロナマドリードパナマ→アルバ→キュラソー→アルバ→パナマ→ヒューストン→ダラス・フォートワース→ロサンゼルス→成田

 

2023年3月14日、この日の夜8時30分ごろの飛行機で、私はDFWを飛び立った。

 

LAへ

お世話になったEの自宅から空港であるDFWまでは車で1時間ほどかかる。当日になってパッキングをしていると、初日にEに失くされたお気に入りのピアスが見つかってハッピーだったり。

 

スーツケースに入らない荷物を巨大トートに詰める私を見て何度もEは、「スーツケース貸そうか?」と言ってくれた。本当に優しい。でも私は、預け入れ荷物1個のプランしか申し込んでいないのだ。

 

DFWからは意外と成田への定期便があり、直行便で帰れてしまうのだが、あまり値段も安くないので、日本行きの選択肢がたくさんあるLAに飛ぶことにしていた。

 

Eとの別れは意外とあっさりとしていた。なんでだろう(笑)またすぐに会える気がした。アメリカは思っているほど遠くない(と今回の旅を通して思ってしまった自分がいる)。

 

空港の駐車場でEと別れ、私は1人でチェックイン。自動チェックイン機で荷物タグを2枚印刷してしまい、おまけに預入荷物のカウンターでお姉さんに「行き先は?」と聞かれ、「LA」と答えているのに、私の発音のせい?なのか何なのか、10回言っても通じなくて、スマホで予約票を見せる羽目になった。お姉さんは「Oh LA!!なんで聞き取れなかったのか分からないわ。本当にごめんなさい。」と言っていたが、全くである。本気で謝っていたので許そう。

 

しかも荷物タグを2枚印刷した件はこちらが謝る番(苦笑)さらに荷物超過で、「4パウンド抜いてちょうだい。」と言われる始末。4パウンド、つまりスペイン語で言う4リブラなのだが、何キロか即座に計算できず、適当に抜いて「これで良い?」と聞いたら多分だめだった。けど単位が分からないと気づいてくれたか、明らかに渋い顔で「いいことにするわ。」と。お姉さん本当にありがとう。

 

DFWの空港もかなり巨大で、ターミナル移動で電車に乗らされた気がする。スーツケースに入っていた衣類をトートに移したせいで、肩にかけられる重さではなくなっている。1人旅の限界。

DFWバイバイ。

DFWからLAはアメリカンエアで飛ぶが、使用機材の到着遅れで40分ほど遅延していた。でも私はむしろ助かった。なぜなら、LAから日本行きの便はこの次の日だからである。そして私はお金が勿体ないので、ホテルも予約しなかった。つまりこの日はLAの空港泊。遅延していればそれだけLAの空港での待ち時間が短くなるので、助かる助かる。

アメリカンエアのアプリを入れておいたので、情報が随時アップデートされて良い◎

そして定刻40分遅れの21時過ぎ、飛行機はLAに向けて離陸した。来た時とは正反対に、この日は天候が良かったのか、1ミリも揺れることのない快適すぎるフライトだった。

 

巨大なアメリカ。テキサスとLAは2時間も時差がある。信じられない。到着はLA時間22時30分。

 

ハローLA

LAにつくと、斜め後ろに座っていた、いかにもなカルフォルニアガールズが、迎えに来ている家族と電話をしていた。その前の席にいた、中東出身の酔っ払いおじさん2人組が、その女子たちに電話番号を聞いていてキモかった。「彼氏がいるの、ごめんなさい。」と言う2人に、訛った英語で絡んでいるおじさん2人。それを見ながら、カルフォルニアガールズはここが地元なのか〜と考える私。

 

LAの空港は意外にもパナマと同じ構造で、到着と出発ロビーが同じため、到着すると免税エリアを逆走する。しかもその逆走距離が尋常ではなかった。多分30分弱歩いた。巨大なターミナルで本当に迷いそう。同じ飛行機だった人を目安にずっとついて行ったが、これは1人なら迷っていたかも。ようやく荷物を引き取る。荷物の場所も、奇跡的にたどり着けた。

 

同い年くらいの白人女性に、「これって、ノースカロライナからの荷物?」と聞かれた。「ここはダラスからです。」と答える。お礼をしてお姉さんはどっかに行った。アメリカ人でも間違えやすいこの空港。

 

LAの空港は国内線と国際線でターミナルが別なため、私は国際線の方に移動するために1回空港の外に出なければならない。LAは大雨だった。滝のような雨で道路が浸水している中、走って国際線ターミナルに駆け込んだ。

 

LAの空港泊

ここからがメインイベント(え)。日本行きの便は翌日の10時40分なので、ざっと12時間ヒマ。LAの荷物検査のエリアでの空港泊に関して、あまり情報がなかったので備忘録兼ねて書いておこうと思う。

 

まずはお腹が空いていた。私は閉店作業中のコンビニに駆け込み、カットフルーツを購入。めちゃくちゃ高かった(1536円)(思い出したくない)。

 

お次はベンチ探し。LAの空港は大きいので、日本みたいにベンチがたくさん並んでいるのかと思いきや、全然ない。そしてベンチにいるのはホームレスが大半だった。数的にも相席は確定なので、とりあえずホームレスの男性と1つ空けて座ってみた。そして堂々と(高級)カットフルーツを食べた。

たっか。

フルーツを食べていたベンチは入り口付近だったのだが、ドアが開きっぱなしなので非常に寒かった。LAといえばヤシの木とビーチなのだが、この日は大雨…吹き込む風から逃れるために、空港の奥の方へ。

 

コンセントがついているベンチがあり、勝ちを確信したのも束の間。壊れていて使えなかった(全部)。仕方なく充電は諦め、低電力モードにする。眠ろうかな、と思うが、ホームレスがとにかくたくさんいて気が気でない。時折立ち上がってうろうろしていたので、こちらが警戒するのは当然。とりあえず私は、スマホ、財布、パスポート、iPadをトレーナーの中(おなか)に隠した。さて。寝よう。(この状況で寝るやつ)

 

思った以上に寒くて、風邪を引く覚悟だった。私は、パナマに行く前に、日本から着てきたダウンを日本の実家に郵送してしまっている(笑)アメリカ南部は寒いイメージがなかったが、ちゃんと3月だった。しかもオープンな空港。暖房もなく、外気温と同じ。トレーナー1枚の私は歯がガチガチ。途中で掃除のためにベンチを動かすということで、掃除のおじさんに起こされたり。

 

結局、記憶がない程度に眠れたのは1時間ほどかもしれない。あとはうっすら記憶がある。充電がないのでスマホも使えない、長い長い夜を過ごした。でも明けない夜はない(自己啓発系?)。辺りが明るくなってきて、人が増えてきたときは感動だった。

 

結論:LA空港泊、オススメはできないけど、女子1人でもできなくはない。

 

つらつら書いたけど、長いので日本に飛ぶのは次の記事にします…。

【世界一周】#39 大好きな人たちに会いに行く旅 〜アメリカ編〜

今回の記事の大枠(大文字部分)

羽田→シンガポール→ロンドン→ブリュッセルアムステルダムブリュッセル→ロンドン→バルセロナマドリードパナマ→アルバ→キュラソー→アルバ→パナマ→ヒューストン→ダラス・フォートワース→ロサンゼルス→成田

 

フォートワースはテキサスの中でも田舎町で、特に何もないし、私のホストシスターEは毎日大学の授業があるので、私はほとんど家で彼女の娘と弟と一緒に、映画やドラマを見て時間を過ごした。でもそれで良かった。私は子どもが好きなので、子どもたちの面倒を見ながらゆっくりと過ごせたおかげで、旅の疲れが癒された。

 

今回は約2週間滞在したアメリカ、残りの話をダイジェストでお送りしよう。

 

 

キノピオ

暇なアメリカ滞在中、この家に何台かあったスイッチをして暇つぶしをした。ステイホームが呼びかけられていた間、欲しくて欲しくて仕方なかったけれど、買うことはなかったスイッチ。DS時代から大好きなどうぶつの森をして過ごそうと思ったが、ホストシスターEの1番下の弟はマリオ派。一緒にマリオカート対決をしたりした。

 

英語版でもマリオはマリオ、ルイージルイージ

 

なのにキノピオToad(え)。

Toad(だれ)。

 

キノピオキノピオじゃなくちゃ…と心の中で思った話。

君はキノピオのはずだろ

たぬきち

とはいえ、1番下の弟が学校に行っている間、スイッチは私の物。心置きなく「どう森」を楽しませていただいた。しかしこちらも設定が英語。昔カナダに行った時に同じように英語でどう森をやらせてもらったため、初めてではないのだが、英語版は住人こぞって原型を留めない名前に変わり、口癖も消える。だから「だなも」を言わないたぬきち…Tom Nookはちょっと寂しいのだ。

だなも。

 

しかし英語版どう森は英語の勉強にオススメだったりする。花の名前、魚の名前、虫の名前。普段の勉強ではなかなか学べないけれど、たまーに必要になったりするあの単語たちは、どう森をきっかけに学ぶことができる。スイッチを持っていない私は詳しくないけれど、多分スイッチは言語を変えて遊べるので、学びたい言語に設定したら、かなり勉強になると思う。

日本語でもわりと花の名前とか勉強になるなる。

雪が降る

話は変わるけれど、ホストシスターのEは結構面倒くさがり。ソファに居座って、なるべく動かずに生活をしている。でも彼女の1歳半の娘はあちこち動き回っては、床に落ちているゴミを食べたり舐めたり。若干潔癖症の私はそれを見ているのが耐えられず、せっせと暇なときにブラシで床の掃除をしていた。

 

するとEが一応気を使って、手伝ってくれる(笑)そんな姿を見たEのお母さんはある時、「Va a caer nieve!」と言った。つまり直訳すると「雪が降る」ということなのだが、珍しくて驚いた時に「雨が降る」「雪が降る」「槍が降る」という言い方は、日本語独自のものだと思っていたのでこちらがびっくりした。

 

アメリカ人曰く、英語では言わないらしい。スペイン語ならではなのだろうか。暇なアメリカ滞在でも、異なる言語を話す人と生活していると、日常生活の中に面白い発見がたくさんある。

 

「良い子にしなさい」

日本人は、中学1年生の英語の授業で命令文を習う。その時に、必ず出てくる例文「良い子にしなさい」「良い生徒になりなさい」。塾講師をしていたときも、家庭教師をしている今も、あれをひたすら「Be a good girl.」「Be a good student.」という風に教えているし、ワークブックの答えもそうなっているのだが、Eや彼女の妹は、1番下の弟やEの娘に対し、異なる表現を用いて注意していた。

 

それが「Behave yourself.」。

 

「良い子にしなさい」、「行儀よくしなさい」をネイティブはこう言う。なんで「Yourself」なんだろうとか、色々調べていたらとてもおもしろかった(私だけ?)。他国での暮らしって本当に楽しくて学びが多い(満足)。

 

アメリカ版「おかあさんといっしょ

Eは1歳半の娘にひたすら子ども向け番組を見せて機嫌を取ったり、見せている間に勉強したりしていた。それが「Blue's Clues」というYouTubeチャンネルなのだが、アメリカ版「おかあさんといっしょ」と言って良いだろう。

 

歌のお兄さんならぬジョシュという男の子と、犬のブルーが出てきて、楽しい音楽や映像に合わせて色の名前やアルファベット、英語の文法を勉強できる教育番組。おかげで帰国してからも、あの音楽と犬の声がしばらく頭から離れなかったが、考えてみたらインターネットで世界中の情報を得られる今、日本にいても、自分が英語を話せなくても、英語を小さい頃から学ばせることが可能なのでは…?と思った。

 

www.youtube.com

 

調べてみると1996年から放送している超有名番組らしい。歴代のお兄さんは白人が多かったが、現在のお兄さんはフィリピン系の方で、アジア系アメリカ人がお兄さん役をするのは初めてのことなんだとか。

 

家事をしている間に永遠に聞き流したら、子どもだけでなく大人でも英語の勉強にもなると思う。ほとんど難しい単語や文法は出てこないので、基本の「き」からという方にオススメ。

 

ちなみに私は、Eの部屋のテレビでYouTubeを見るためにログインしていたのだが、ログアウトするのを忘れて帰国してしまった。怠惰なEは、自分のアカウントに変えることなくYouTubeを使っている。よって私のYouTubeオススメ欄は一時期、この「Blue's Clues」が占めていた…

 

犬アレルギー

私は小さい頃から動物が苦手だった。母の実家が大きいシベリアンハスキーを飼っており、子どもの頃そいつが怖くて仕方なかった。たぶんそれが理由で犬嫌いになった。その上検査するとアレルギーがあることが判明し、動物があまり得意ではない。

 

だがEの家は真っ黒な大きい犬を飼っていた。名前を「Rico(リコ)」と言う。スペイン語で「お金持ち」とか「美味しい」、「豊かな」など、色々な意味がある単語だが、E曰く「お金持ち」の意味で名付けたらしい(笑)ちなみに日本語では女の子の名前の「リカ」、「リコ」。スペイン語圏ではそんな意味。

 

Eの下の弟はやんちゃだし、Eの娘はまだ1歳半。家の中がしっちゃかめっちゃかで、その犬は基本誰からも相手にされていなかった(笑)そんなリコを可哀想に思い、私は暇なときにせっせと背中のブラッシングをしてあげた。すると私になついたのか、すりすりと自分から私の隣に来るようになった。幼い頃はどんな犬でも近づくことができなかったが、今はあの時ほど苦手ではないので、可愛いな、と思い、ますますブラッシングに精が出た。

相手にされないリコ。

そしたらその夜からくしゃみが止まらない。完全にアレルギー。次の日には熱も上がり、だるくて動けなかったので、見兼ねたEが薬を買って来てくれた。この旅で4種類目の薬(アセアセ)(イギリスの風薬、スペインの風薬、パナマの酔い止め…時間が空きすぎてお忘れかもしれませんが、この旅の前半、私はコロナだったのです。)

 

買って来てもらったものは、アメリカではアレルギー薬として一番主流のものらしいが、中身がピンク。どうして外国の薬は口に入れ難い色なのだろう。と思いながら箱を眺めていたら、衝撃の事実はなんとMade in Japan。え。

 

この「Benadryl」という薬は、日本で「ドリエル」という商品名で売られているものと全く同じ成分で、睡眠薬の効果もあるらしい。これを飲んで眠くなった記憶はないが、私はこの薬のおかげでアレルギーが落ち着いた。

薬自体もどピンク。

いつかもし書く機会(と気力)があったら書きたいと思っているが、この旅で痛感した海外旅行に持って行くべきもの、ベストワンは薬かもしれない(笑)ヨーロッパでは薬が意外と高いので、日本から持って行くほうが経済的だし、具合が悪いときに、全然読めない言語で欲しい薬を探すのは結構しんどいと思う。私は今回いろいろな人が助けてくれたけど、1人だったら絶対辛いだろうな。

 

最新(?)カーナビ

アメリカは車社会だが、そんなアメリカで車に乗ると、ほぼ100%くらいの普及率で、iphoneと接続できるカーナビが付いている。ググってみたら、Appleから提供されているCarPlayというシステムらしい。これがiphoneのようにスタイリッシュな画面で、iphoneと連動できるし、ほぼiphoneのように使えるので、Appleユーザー的にはとても使いやすい。最近の物だとiphoneを車の鍵として使えるとか。

ほぼiphone

さすがApple本国。どこに行くにも使っていて、どの車にも付いている印象だった。調べてみると多分日本でも使えるので、単純に普及していないだけだが、アメリカはやっぱり一歩進んだ世界だなあと感心した。なんか分からないけど、GDP世界最大の国は違うなあと。

 

レジ袋

GDP世界最大の国を感じた場面は他にもある。例えばスーパー。今回の旅で色々な国に行ったが、どこの国もレジ袋は有料だった。アルバに関しては2017年に、ビニール袋の使用が禁止されており、お金を出しても買うことはできなかった。今では使い捨てのプラスチック製品の製造、販売、使用も法律で禁止されている。

 

しかしアメリカのスーパーでは、少しでもいっぱいになったら、次から次へと新しい袋に詰めてくれる。ばんばんばんばん引き出される袋。全て無料だった。

 

そもそもレジ袋はプラスチックゴミの2%にしか相当しないので、レジ袋を有料にしたからといって、日本や他の世界の国が環境問題に向き合っていると言うことは難しいのかもしれないが、それでもこのアメリカと世界とのギャップ。資源とお金があれば何をしようと自由だろって、そんな風に感じてしまった。

 

大好きだったアメリ

さて。いつかブログに書いたことがある気がするが、私は中学生の時に「iCarly」というアメリカのドラマにどハマりし、アメリカにものすごくかぶれた。私の高校は完全に私服校だったので、紫のオーバーサイズパーカーに、蛍光ピンクのショートパンツという格好で学校に行き、気分だけはハイスクールミュージカルだった。ホームステイを受け入れ、日常生活の中でアメリカ人と関わるようになると、英語やアメリカをますます好きになった。

 

今回人生3回目のアメリカ(本土)に行き、ホストシスターのEと再会したり、他のアメリカ人の友人と再会したことで、あの時の気持ちが思い出され、すごく懐かしかった。思うようにいかなくて涙を流す毎日だったけど、今振り返ると、「好き」をひたすらに追い求めていたあの時の自分は、自由を手に入れた今の自分よりも、ずっとずっとキラキラしている。あの時に蒔いた人とのつながりの種は、ちゃんと成長し、今こうやって私をアメリカに呼んでくれた。だからこれで良かったんだってあの時の自分に伝えたい。

 

もし私にいつか子どもができたら、Eの娘と友達になってほしいと思っていたら、Eも同じことを言っていた。あの時Eと出会えて私は本当に救われた。あなたが私の人生にいてくれて良かった。これからも一生好き。大好き!!!!!

 

You are my only and best older sister forever and ever and ever. 

2014年。左が私で真ん中がE、右が私の妹。3姉妹みたいで本当に仲良しだった。

Eの娘。ラテンアメリカの人は人種的に(?)アジア系の血が混ざっているので、特に幼い頃は東洋系と白人のハーフっぽくて馴染みやすい。本当に可愛かった。

-------------------------

 

これで私のアメリカ日記は終了する。次の記事では日本までの帰国編を書こうと思うが、こちらもまたおもしろい話があったりするので乞うご期待(?)

 

【世界一周】#38 大好きな人たちに会いに行く旅 〜アメリカの大学に潜入〜

今回の記事の大枠(大文字部分)

羽田→シンガポール→ロンドン→ブリュッセルアムステルダムブリュッセル→ロンドン→バルセロナマドリードパナマ→アルバ→キュラソー→アルバ→パナマ→ヒューストン→ダラス・フォートワース→ロサンゼルス→成田

 

今回はEの大学に潜入した話を書いてみたい。Eの大学に行くことは、アメリカ滞在のメイン並みに楽しみにしていたことだった。

 

 

学費と施設

Eは私と同じ看護学部に在籍している。アメリカの大学は信じられないくらい学費が高い。特にEの行っている大学は、私立であり、私立の中でもお嬢様校と言われている学校だった。気になる学費は年間なんと、約72,000ドルで、円安の今の日本円に直すと1050万円を超える、、!!(※正確な額を書くと大学を特定できるため、大体の額。)

 

アメリカの看護学部は3年間(通常29ヶ月、ただし早いコースだと19ヶ月)で卒業でき、トータルの学費は3000万円を超えるということで、日本の中でも平凡な家庭で育った私には目が飛び出る額なのである。

 

しかしそれはEにとっても高額である。Eの家族は移民のため、決して裕福な家庭ではない。Eは3年ほどアルバイトをして学費を貯め、残りは奨学金アメリカでは基本的に返済不要の奨学金がある)で賄っている。

 

学費が異常に高い分、キャンパスは広大で綺麗で新しいが、それでも高い。うん。

 

アメリカの看護学部の授業

私はこの日、合計2コマの授業を受けさせてもらった。1コマ何分だったか記憶が曖昧なのだが、90分だったような気がする。7時半に家を出て、9時から1限の授業だった。1クラス20〜30人ほどの生徒がいた。当然その人数だと、日本で言う「もぐりん」みたいなことはできないので、Eが事前に先生から許可を取っていてくれた。Eの友達数人に挨拶をし、最前列に座る。

 

1コマ目は日本で言う(というか私の大学で言う)「疾病治療各論」の授業で、この日は神経難病について学んだ。授業が始まるまで、このクラスの先生と話していたのだが、とても優しい先生だった。私がEとの思い出を話していると、「あなた英語上手いわね、どうやって勉強したの?」と。アメリカ人(というか、英語母語話者)は、外国人が英語を話せることを当たり前だと思っている説があるので、正直驚いたし、そんなことを言ってくれるアメリカ人は初めてだった。

 

授業は、先生がスクリーンに映したパワーポイントを用いて説明する形式で行われた。アメリカの授業は、生徒が活発に意見交換をするようなイメージがあるが、意外と大学レベルになると講義スタイルの授業も普通にある。事前にパワポを配ってくれるので、それをipadに取り込んで書き込みながら授業を受ける人が多く、この辺も私の日本の大学とほぼ変わらなかった。また、パワポの中には動画があり、パーキンソン症候群の症状を見たり、ALS患者のドキュメンタリーを見たり、全体的に日本の授業よりも動画が多いので、授業は飽きることなく聞いていられた。授業の節目節目で授業内容に関する4択クイズがあり、学生が積極的に手を挙げ、答えと、なぜそう思うのかを述べていた。私の大学の授業でも、国試の問題を授業の途中でぶっこんでくる先生がいるが、基本的に皆控えめに手をあげる。そして正直私は毎回答えが分からない(苦笑)

 

疾病治療の授業は既習のため、英語で専門用語を言われても大体理解できたし、授業内容の9割以上を理解でき、私は満足だった。

 

2コマ目は小児看護学の授業だった。この数日前までEたちは周産期看護を学んでおり、テストが終わってこの日が小児の最初の授業。ということで、初回は成績の付け方や概要説明でとても簡単に終わった。

 

授業内容に入るとまず、小児ではバイタルサインを測る順番が異なることを学んだ。

先生「成人では通常何を1番最初に測りますか?」

「血圧」

 

日本では通常「体温」だと思うので、私は危うく1人で間違えるところだった。(アセアセ)まあクラス全体に響き渡るような大声は出さないから、聞こえないか。

 

続いて

先生「そうですね。でも小児では血圧は最後にやることです。なぜでしょう?」

問いを投げかけると、学生が理由を次々に答える。この辺は日本と同じような話だった。ちなみに私はこの時点では小児看護を習っていないので、知識がない。小児の感情やエリクソンの発達段階、子どもの成長発達や環境の工夫など、4月以降に日本でも同じような内容を習った。(そういえば、エリクソンの発達段階を聞かれてみんな一斉に答えられていたな。私は毎回調べているけれど。汗汗)あ、あと「乳児」や「幼児」といった用語の定義も確認していた。これも日本と同じだ。

 

先生は、授業の合間に学生が飼っているペットの写真を見せていた。事前に学生から写真を送ってもらい、日替わりでランダムに写真を提示する。するとその飼い主の生徒がペットについて説明する、という流れのようだ。ほんの5分程度だが、気分転換になって良い。授業に集中してもらう工夫が、やっぱりアメリカ人は上手だなと感じた。

 

\小児看護学の授業で出てきた単語/

Pediatric 小児

→みんな略して「peds」(ピ−ッズ)と呼んでいた。

Atraumatic care  日本語…?

→「traumatic」の逆。

Temperament 機嫌

→小児看護では大切

NICU

→日本ではNと呼ぶことが多い?が、アメリカでは「ニキュー」と呼んでいて衝撃。最初なんの話をしているのか全く分からなかった。

 

...このくらい?他に意味が分からなかった単語はなかった気がする。この授業も図や動画が多く、概論だったこともありほぼ全て理解できた。

 

実習

日本と同じように、アメリカでも病棟での実習がある。ただ日本とは異なり、数週間連続でやるのではなく、1日単位で行っていた。実習服は大学のテーマカラーのスクラブだった。日本のように決まった髪色で派手すぎないメイク、ネットの中に髪を入れるとかそんなことは決まっていない。自由にメイクをし、金髪に染めている髪を適当に束ねて出て行く。いいなあ〜と思う反面、実習先の病院が遠いと朝5時に家を出て行くので大変そうだった。でも早起きを乗り切れれば、絶対にアメリカの看護学生が良い。

 

E曰く、実習で指導してもらう看護師によっては、学生に良い態度を取らないこともあるので、実習が楽しいかどうかは運らしい。意外とこの辺も日本と同じだろうか。まああまり書かない方が良いのでおとなしくしていよう。ちなみに「nurse bullying」で検索すると、動画やニュース記事がたくさん出てくる。あの現象って、インターナショナルなんですね(?)

 

アメリカの看護師

アメリカの看護師は、州にもよるが、平均年収なんと$75,510。円安の現在の為替レートで計算すると1000万円を超えてくる。ひい。信じられない。しかもそれで週3日ほどしか出勤しない。

 

ちなみに私はパナマに留学している時、色々なところで親の職業を聞かれることがあった。私の母は看護師のため、そう伝えると決まって「だからお金持ちなのね!」と言われた。それまでこんな風に日本で言われたことは1回もない。アメリカやアメリカ大陸の国では、看護師は専門性のある高収入の職業として認識されている。Eや他のアメリカ人も、アメリカでは看護師はとても必要とされ、社会的ステータスの高い職業だと言っていた。(アジア圏や欧州の友達とも話したことがあるのだが、皆日本人と同じような反応をするので、「看護師=金持ち、尊敬」の図はどうやらアメリカやアメリカ大陸特有のものだと思われる。)

 

Eはアメリカで看護師になったら、生活に困ることはまずないと言う。大きな家を買い、フィアンセのメキシコ人と娘と暮らすことを夢見ていた。「看護師になったら家族3人で日本に行くのも余裕よ。」と(羨)

 

ついでにアメリカでは日勤担当と夜勤担当が決まっているので、生活リズムが狂わないのも利点である。うーーーん。私は今まで英語や他の言語を勉強してきて、言語だけできてもどうしようもないじゃんとか散々聞いてきたけど、今こそ勉強してきたことを利用すべきなのでは?と本気で思う、、。

 

そういえば話は変わって、日本では国際系や言語系学部の人気が最近注目されている。しかしこれまでの私の経験的に、ラテンアメリカでそのような文系学部を伝えてもぽかんとされてきた。ラテンアメリカの人は基本的に文系学部に興味がない。…というか、良い評価すらない気がする。大学といえばテクノロジーやサイエンス、医学部、歯学部、エンジニアなどがほとんどで、なんで文系の学部?とすら思うのだろう。でもアメリカでは、文系学部も評価される。下の写真も「副専攻としてアジア地域を学びませんか?」といった宣伝だ。Eは私がすでに文系学部の学士を持っていることを、やたら友達に自慢していた。いつもラテンアメリカに行き、ラテンアメリカ人にしか評価されることがないので、この時はなんだか嬉しかった。国が発展しているほど、文系学部も重要視されるため、評価されやすいのかもしれない。

 

 

余談と希望が多くなったが、これが私のアメリカの大学潜入記である。旅行で訪れていたら絶対にできなかった、アメリカの大学の授業を受けることができ、ホストシスターとの出会いに本当に感謝している。

 

学内の写真をほぼ撮らなかったのだが、唯一撮ったのがこのコーナー。ボウルは空だが、なんのお菓子が入っていたのだろうか。

 

【世界一周】#37 大好きな人たちに会いに行く旅 〜アメリカ編ヒスパニック②〜

今回の記事の大枠(大文字部分)

羽田→シンガポール→ロンドン→ブリュッセルアムステルダムブリュッセル→ロンドン→バルセロナマドリードパナマ→アルバ→キュラソー→アルバ→パナマ→ヒューストン→ダラス・フォートワース→ロサンゼルス→成田

 

さて、今回もヒスパニック特集をお送りしたい。

 

大家族のヒスパニック

早速だが、ヒスパニックの人たちは大家族という特徴がある。例えば、Eは6人兄弟なので立派な大家族。Eの姉は別の州で暮らしているので、一緒に暮らしている人数としてはマイナス1人だが、Eには娘が1人いるので、プラマイ0の6人、そこに両親を合わせて8人暮らし…。っと、ここまではまだ理解の範疇。

ここからが本題。8人暮らしかと思いきや、血のつながりのない女性も1人、この家で暮らしていた。この女性は私と同い年で(最終日にそのことを知った!)、メキシコのEの実家のご近所さんで昨年アメリカに移住し、家を借りられるお金が貯まるまでここに住むらしい。全く英語が話せない彼女はファストフード店で働きながら、Eの娘の面倒を(誰よりも、もはやEよりも)みて、部屋はないのでリビングで寝ていた。突然押しかけた私が1部屋使わせてもらっているのが申し訳なかった。ついでに書くと、みんなでアメリカ映画を見るときは、彼女のためにスペイン語字幕を付けるか、全員が理解できるスペイン語吹き替えで見るのだが、私が来たことで彼らは私のために日本語字幕を付けてくれようとするので、彼女への申し訳なさが2倍増しだった。

 

ある時彼女と2人でスーパーへ行き、セルフレジで会計をしている時に、バーコードがくしゃくしゃになって読み取れないものがあった。彼女は英語を話すことができないため、私が店員と話し(結構面倒な過程を経て)解決したのだが、その時に片言の英語で「ありがとう」と言われた。それでも彼女への申し訳なさは帰国するまで蓄積するいっぽうだった(苦笑)

スペイン語吹き替えで見ているので、私のために英語字幕を付けている。別案件なので長くは書かないが、スペイン語吹き替えは本当にひどくてスペイン語学習者からは評判が悪い(笑)

話は戻るが、ラテンアメリカの人はとにかく人に優しく、人を大切にする。たとえ血が繋がっていなくとも、大切な人は家族同然の扱いをするから「家族」と呼ぶ範囲が大きい。私が今回アメリカに行くと言ったら、「好きなだけいな」と言ってくれるわけである。なんなら、「大学を卒業したらこの家で一緒に暮らそうよ」と言ってくれる。そんなラテンアメリカ人の心の広さが大好きなのだ。

 

彼女が言うに、いとこは100人を超えるらしい。(ほぉ…。)

 

さて、Eはメキシコ在住のメキシコ人と付き合っている。(Eがメキシコに帰省中に出会ったらしい。)2人は結婚する予定なのだが、Eはアメリカ国籍のため、いわゆる国際結婚ということで、法律上の結婚はそう簡単にはいかない。お相手のビザを申請してすでに1年以上経過している。Eはこう言う。「彼をアメリカに呼べば、彼の家族により良い生活をしてもらうことができるの。」さらに、そのお相手はEの前に付き合っていた人との間に2人の娘がいるのだが、Eはその娘とその元カノ(と呼ぶのが適切かは知らないが)の分のアメリカビザも申請するらしい。Eは、アメリカに来れば、全く違う人生を生きることができるから。可能性と選択肢を増やしてあげたいの。」とも言っていた。

 

ヒスパニックの数が著しく増加しているというが、その現実を目の当たりにした気がした。アメリカに移住したヒスパニックはこうやって、まだ母国にいる大切な人たちに「より良い生活」を恵む。自分がここまで来れたのは先人のおかげだから、今度は自分が還元する番なのだと。先にアメリカに移住した責務を果たすかのように。

 

母国に対する思い

ここまで聞くと、アメリカでの生活に満足しているように思われるEだが、実は頻繁にメキシコに里帰りしている。飛行機で行くときもあるが、車でただひたすらにメキシコまで走ることも。ちなみにEの家の車はメキシコのナンバープレート。(陸続きのラテンアメリカでは、他国のナンバープレートでも走れるように必ず国名が書いてあるのには驚いた。日本ではまず考えられない。)10歳まで過ごしたメキシコは、Eにとって忘れられない故郷なのだ。アメリカは銃の事件が多い、ろくな国じゃない。人々は分断されている。」と言う。

 

一方で、アメリカで生まれ育ったEの下のきょうだい2人や、当時は幼すぎてメキシコで暮らしていた記憶がない弟は、メキシコに全く興味がない。危険そうだから行きたいとも思わないらしく、今まで1回も両親や姉らの帰省について行ったことがない。「私はメキシコ人というより、アメリカ人だと思う」と言っていた。このきょうだい間のギャップに驚いてしまう。

 

メキシコ流の生活

Eの家族が暮らすテキサス州は以前書いた通り人口の40%がヒスパニックである。そのため、街の中にはメキシカンモールがあり、メキシカンフードや伝統のドレスを売る店や、メキシコ流に格安でスマホを直したりする店が薄暗い少し古めの建物の中にひしめいていた。案内してくれたEの妹曰く、このモールにはヒスパニックの人以外来ないらしい。後日「普通」のモールにも連れて行ってもらったのだが、ツルツルのタイルに明るい照明のもと、H&MやVANS、NIKEといった誰もが聞いたことのあるグローバルブランドが並ぶそのモールとは全く異なる。もちろん店員もヒスパニックで、スペイン語で話す。

メキシカンモールの飲食店。メニューも全てスペイン語

ある時Eの大学に連れて行ってもらった。そこで紹介されたEの友達は皆例外なくメキシコ系のヒスパニックだった。だから会話の半分はスペイン語だし、メキシコの話題で盛り上がる。よく、留学すると日本人は日本人でかたまりがちとかなんとか言うが、日本人に限らずそれは当然のことなのだと思った。

 

Eの結婚予定のフィアンセもメキシコ人。メキシコには興味がないと言っていたEの妹の彼氏もまた、メキシコ系のヒスパニックだった。

 

Eの父はメキシコ料理屋で働き、母はメキシコ料理を売って生活している。彼らは英語がほとんど話せないと書いたが、ヒスパニックコミュニティを対象にした商売を行っているからこそ、アメリカで約20年間英語を使わずに生きてこれたのだ。

 

また、Eの家に行って最初に驚いたのは、トイレットペーパーを捨てるゴミ箱があることだった。ラテンアメリカにはトイレットペーパーを捨てる巨大なゴミ箱がトイレに設置されているのだが、私はアメリカに到着し、空港のトイレにゴミ箱がなくなったことで、ここがアメリカであることを実感していた。なのにこの家にはそのゴミ箱があるではないか。Eにそのことを聞くと、「いや、ペーパーは流しても大丈夫よ。」と。「私たちはメキシコでの生活が長いから、ペーパーを流すことが心配なの。捨てる方が安心する。」とのこと。なるほど。トイレもまた、ラテンアメリカ方式なのであった。

そんなこんなで、ここはメキシコなのか?と日々思いながら生活する私が、ああやっぱりアメリカだと感じたのはウォルマートくらいである。

ここまで書いたように、ヒスパニックは移住先のアメリカで、独自のコミュニティを築いて生活していることがよく分かる。そしてその生活様式もまた、母国に合わせたものであった。これでは確かに「同化しないメキシコ系移民」と言われても返す言葉がない。しかしメキシコ系移民の立場としては、あくまでもこの地はメキシコのものだったという言い分である。

 

私の記憶から抹消されかけている世界史を掘り起こしてみると、1830年代にアメリカはメキシコの領土を犯すようになり、一方的にテキサスの併合を宣言したことでアメリカ=メキシコ戦争が勃発した。この戦争に負けたメキシコは、カルフォルニアニューメキシコを譲渡することになり、今でもメキシコ人の心にはこの時の屈辱があるんだとか。「ここは全部メキシコのものだったのよ。」と真剣な眼差しで言うEの気持ちが分かる気もする。

ここもメキシコだったと思うと、プスッとささっている星条旗が、なんだかあるべくしてささっている気すらした。

日本人が海外に移住しようと考えるとき、言葉の問題や習慣の違いを一番に心配すると思う。でもヒスパニックの人たちにとったら、言葉の壁や、文化の違いなど大した問題ではないのかもしれない。彼らは自分たちの文化や歴史、言葉に対するリスペクトが強く、それらを通して自分たちに自信を持っていた。自信がある人たちはキラキラして見える。異国で堂々と生きる彼らはすごく素敵だった。

 

そしてもはやアメリカについて知りたいと思った時、彼らの存在を無視することはできないのだと感じる。その意味でもスペイン語を学ぶことには価値がある。ヒスパニックに関する本を読み漁り、彼らについてより専門的に理解したいとも思う。

 

 

以上、私が2週間弱ヒスパニックの家族と暮らして感じた、彼らの生活、人生観についてである。つらつら書いただけだったのでつまらなかったら申し訳ないのですが、次回はアメリカの大学に潜入した時の話を書きたいと思う。(あれ、もう8月も終わりに近づいている?)

 

 

 

【世界一周】#36 大好きな人たちに会いに行く旅 〜アメリカ編ヒスパニック①〜

今回の記事の大枠(大文字部分)

羽田→シンガポール→ロンドン→ブリュッセルアムステルダムブリュッセル→ロンドン→バルセロナマドリードパナマ→アルバ→キュラソー→アルバ→パナマ→ヒューストン→ダラス・フォートワース→ロサンゼルス→成田

 

ふう。実習の山場を乗り越え、久しぶりの投稿。この後も実習が続くので、束の間の夏休みに書き終えるぞ。(やる気だけは完璧)

 

今回はアメリカで暮らす移民の生活や、彼らの人生について書きたいと思う。もちろん移民と言っても様々な人たちがいるし、一概に言うことはできないけれど、教科書で習う「ヒスパニック」と呼ばれる人たちがどんな人たちなのか、そして母国を離れてアメリカで暮らすとはどんな意味を持つのか、少しでも見たこと聞いたこと思ったことをシェアしたい。

 

※私のホストシスターはメキシコ系のヒスパニックです。

 

ところで毎回「私のホストシスター」と書くのは面倒になってきたので、今回から彼女をEとする。

 

 

アメリカで暮らすヒスパニックの人々

中学生の時、社会の覚える単語の定番に「ヒスパニック」があった。そしてその数が著しく増加しているということも習ったけれど、なぜそれが教科書の太字になるほど重要なのか、よく分からないまま高校生になった。今思えば、分からないなら自分で調べるべきだったけれど、結局はテストで「ヒスパニック」という単語が書ければ良いだけなので、彼らがどんな人たちなのか、どんな人生を生きているのか知らないところで困ることはなかった。でも高1の時にこのホストシスターEに出会い、そしてパナマに留学して初めて、ヒスパニックと呼ばれる人たちが教科書の中だけでない、現実に存在している人たちとして認識された。

 

ヒスパニックとは、米国国勢調査の定義を訳すとラテンアメリカ出身のスペイン語を話す人々とされている。つまりヒスパニックは人種を指す言葉ではないので、白人系もいれば、黒人系のヒスパニックも存在する。ちなみにEはとても白人系である。

 

昨年の国勢調査に基づくと、自分の人種について「ヒスパニック(もしくはラティーノ)である」と回答している人は全人口の20%弱で、その数は年々増加している。最も多いのはカルフォルニア州で、テキサス州フロリダ州と続くが、人口の割合だとニューメキシコ州に住む実に約半分がヒスパニックである。そしてテキサス州カルフォルニア州で約40%、アリゾナ州では約30%がヒスパニックであり、これを地図に当てはめると南部の州、地理的にメキシコに接している州の割合が当然多くなる。

 

ヒスパニックの人たちはアメリカンドリームを夢見て国境を跨ぐ。当然国境を接するメキシコ系の移民は多いが、南米大陸カリブ海の島国(キューバやハイチ)からの移民も多い。

 

南米からの移民は、パナマとコロンビア国境のダリエン地峡と呼ばれる熱帯雨林を超えて北上する。その地峡は今年7月までに25万人が通過しているが、そのほとんどがベネズエラ人だった。(ベネズエラ情勢については以前書いたので割愛。)すでに昨年1年間で通過した人数を上回っており、このペースだと今年のその数は40万人に上るだろうとパナマ出入国管理局は予測している。

 

この地峡は世界遺産にも登録されている動植物の宝庫なのだが、なにせ厳しい自然条件の密林のため、パナマ政府もコロンビア政府も管理が行き届かない無法地帯で、ゲリラが潜伏している。コロンビアで生産された違法薬物も、ここをスッと通り先進国へと運ばれているし、窃盗や強姦などの犯罪が横行。過去には南米と中米を結ぶ高速道路の建設も提案されたが、今でもこの地峡を陸路では「普通」越境できない。それでもアメリカを目指す人々は、この地峡を何日もかけて渡る。移民が歩いてアメリカを目指すのは、航空券を買うお金がないのではなく、国境警備が行き届いていない穴場を狙うためなのである。空路や海路では、出入国管理局の審査を免れることはまず不可能だから。

 

移民の言語

Eも10歳の時にメキシコから越境し、最初は不法移民として暮らしていた。そのうち学校に行き始め、英語を習得したが、今でも彼女の英語はスペイン語訛りが強い。(でも不思議なことに、彼女と出会った高校生のころは、彼女の話している英語が完璧に聞こえていた。それに気付くことができたということは、この9年で私の英語力は随分成長したのだろう。)全体的な発音や抑揚が訛っているのだが、特定の音の発音についても気になったので紹介する。

 

例えば「Y」の発音。ヨーグルト(Yogurt)をしばしばスペイン語話者は「ジョーグルト」と言いがちである。何度か書いたが、スペイン語では「Y」の発音が「J」の発音と近くなり、どちらで発音しても問題ない。分かりやすい例が「Yo(私)」という単語。人称代名詞であるから頻繁に使われるが、人によって発音がマチマチで、ラテンアメリカでは「ヨ」ではなく「ジョ」と発音する人が多い。まあどちらで発音しようと彼らには同じように聞こえているが、日本語話者や英語話者のように、Yの音とJの音を区別する言語の人にとったら「ヨ」と「ジョ」は全く異なる音である。そのため、「ヨーグルト」を「ジョーグルト」と言われた日には、頭の中が一瞬ハテナだらけになるのである。

 

発音が訛っているだけでなく、Eは三人称単数を忘れる時がある。「She doesn't care.」を「She don't care.」と言ったりするのは、英語ネイティブじゃない私でも気になってしまう。三人称単数を無視する黒人がこのように話すのは「間違い」とは言い切れないのだが、彼女は「doesn't」を使える時と使わない時があり、一貫性がない。そのような話し方をすると、英語ネイティブ的には「なんでそんな話し方をするの?」と思うが、毎回間違って話していると、「この人はこういう話し方をするんだ」と納得してしまうらしい。英語が完璧でないことをネイティブでもない私がとやかく言いたいのではなく、ヒスパニックの中には完璧な英語を話さない人もいる。この完璧な英語を話すことを求められない環境は、私にとって過ごしやすい、言わば「ぬるま湯」だったのである。

 

なんならEの両親は英語がほとんど話せない。アメリカで暮らすヒスパニックは、その数の多さゆえ、スペイン語を話すコミュニティの中だけで生活が完結する。そして彼らの中には、スペイン語を強く自分たちのアイデンティティの1つだと思っている人も多い。Eは「自分のルーツの言語を話せないのは悲しいこと」とすら言っていた。だから保守的なアメリカ人は、この移民先の文化に同化しようとしないメキシコ人を脅威に思っている人もいる。

 

ただ、現在では自分の親は中南米出身だが、本人はアメリカ生まれアメリカ育ちである人も多く、私の元カレアメリカ人くんなんかはその1人。彼は両親の出身国であるコロンビアに物心ついた頃から行ったことがなく、ラテン文化や情勢についてもむしろ私の方が詳しい。スペイン語は9割方理解できるが、話すことはできない。だからヒスパニックと一括りにしても、彼らの人生観やアイデンティティは人それぞれ。

 

話をEの家族に戻すと、Eの兄弟は全員スペイン語が流暢にできる。その中でも一番下の弟はまだ6歳で、言語の獲得過程にあるため、見ていて非常に興味深かった。彼は常に英語とスペイン語が混ぜこぜの文を話す。例えば、英語で言うならば「〇〇(名前)is  sleeping.」のところを、スペイン語で同意の表現を用いて「〇〇 está sleeping.」と言ったり、「I'm not scared.」と言うところを「No tengo scared.」と言っていた。

ちょっと書いてあることはよろしくないが(笑)これもスペイン語と英語が混ぜこぜの例。「es」はスペイン語で「is」の役割をしている。また、この後書いているが、stupetもstupidを発音通りに表記したのだと思われる。

ついでに彼はまだ書きがままならない。特に英語は発音と表記が一致していないため、一致しているスペイン語よりも難しい。しかもスペイン語はいくつかの文字が英語とは違う発音になる。例えば「J」は「H」の音になる。よって彼は「Half」を「Jaf」と書いていた。日英ならぬ西英バイリンガルの成長過程はおもしろい。彼が話したり書いたりしているのを見るのに飽きることがなく、言語習得過程に関する研究でもやったらすごく楽しかったんじゃないかって、今更ながらに思った。

jaf moon」:スペイン語が分からないと、なぜJ?となってしまうが、分かると「jaf」で「ハーフ」と読む気持ちが分かるのだ。

アメリカには中南米に限らずアジア系の移民もたくさんいる。しかしアジア人はヒスパニックの人たちのように、共有する1つの文化や、1つの言語を持たない。流れてくるラジオ、テレビで見る映画、聞いている音楽、ipadなどの設定言語…生活のほとんどに溢れるスペイン語は、様々な国から夢を描いて渡米したヒスパニックの人々を繋ぐ役割を持っているのだと感じた。

 

移民の食事

さて、文化の中でも言語の次に大切なのが食事である。

 

Eの家に行って驚いたことの1つが、毎食のように出てくるトルティーだ。時間を問わず出てくるトルティーヤは、付け合わせが毎回異なる。朝は軽めに塩で味付けた炒り卵、昼食と夕食には味付けをしたチキン、グアカモレ(ワカモレ)、トマト、玉ねぎ、米…など、本当に何でもトルティーヤで巻いて食べていた。

 

また、トルティーヤに肉などを詰めてチーズや唐辛子ソースをかけて食べるEnchilada(エンチラーダ)という料理も美味しかった。

エンチラーダ

ところでメキシコ人はトルティーヤや辛い料理が大好きだが、パナマを含めた他のラテンアメリカではこれらを食べない。比較的メキシコに近い国の文化らしいが、どこまでこの「メキシコっぽい料理」の文化圏なのか、いつか中米を縦断して検証してみたいと思った。

永遠に出てきたトルティー

さて、ある日モールに行き、「Crazy Watermelon」という文字通りCrazyなものを食べた。スイカを半分に割って中身をくり抜き、そこにカットフルーツ(マンゴーやらイチゴやらスイカやら)を大量に入れ、ナッツやグミを上に乗せたところにチリパウダーをかけるメキシカンデザートで、スペイン語では「Sandia Loca(サンディア ロカ)」(直訳)という。控えめに言って不味かったので、私はせっせとチリパウダーをペーパーナプキンで拭き取りながら食べた。チリとフルーツは絶対に合わなかった。だが、スイカに塩をかけると甘くなるという原理で、彼らはチリをかけてフルーツを甘くしているのかもしれない。

クレイジーという名前がこれほど似合う食べ物はない

恒例の余談を書くと、このCrazy Watermelonに入っているナッツ(写真の黄色いもの)は「Japanese peanuts」と呼ばれている。なんだそれ、と思っていたら、周りを小麦粉でコーティングしたナッツのことで、1940年代にメキシコに移民として渡った日本人によって発明されたらしい。残念ながら、食べても日本のこれに似ている!というものが出てこず、恐らく日本では食べられていないと思う…。ある英語の記事を参考にすると、日本では「豆菓子」がこの「Japanese peanuts」に最も近いらしい…。いかにも日本原産そうな名前がついたナッツは、メキシコではとっても有名である。

 

ある時は昼食にエルサルバドル料理を食べた。トルティーヤに酢漬けされたキャベツが付け合わせだった。後々調べてみると、エルサルバドルはキャベツ大国らしく、酢漬けしたキャベツを「Curtido(クルティード)」と言うらしい。これまたなかなか日本ではない経験でおもしろかった。

 

最後に、ヒスパニックの食文化というには強引かつ偏見であるが、1つの事実として書く分にはおもしろいと思ったことを。

 

ある日私たちは動物園に行った。朝からみんなでワクワク、サンドイッチを作った。これをキッチンペーパーで包んでお弁当にし、いざ入園。ところが入園待ちの長い列があり、私たちは雑談に花が咲いていた。するとEや彼女の5つ下の弟が言う。「ああやってクーラーボックスを持ってくるのはヒスパニックに間違いないよ。」と。

 

どういうことかというと、日本でも米国でもテーマパーク内の食事は高いため、倹約家のヒスパニックは自分たちでお弁当を持ってくるという。この家族がその例だし、クーラーボックスをゴロゴロと引いてくる家族はほとんど100%スペイン語を話していた。まあ、最初に書いた通り偏見に過ぎないが、ランチボックスを持って、来る家族来る家族、スペイン語を話していると、自虐的な皮肉でもある彼らの言葉に笑えてしまった。

 

 

…まだまだ書きたいので続きは次回。私は前大学でもヒスパニック系に興味を持ったことがなく、1回もそのような授業を取らなかったのだが、この旅を通してアメリカに住む中南米人にとても興味を持ってしまった。また落ち着いたら文献を読み漁りたいと思いつつ、ここに書いたことは私の経験に基づく話だけなので、ヒスパニックと一括りにするつもりは全くない。ヒスパニックについて全く知らない人が、アメリカで経験した出来事を書いていると思って読んでいただければと思います…。

 

 

 

【参考文献】

worldpopulationreview.com

www.census.gov

 

www.worldvision.ca

 

skdesu.com

 

【世界一周】#35 大好きな人たちに会いに行く旅 〜アメリカ編〜

今回の記事の大枠(大文字部分)

羽田→シンガポール→ロンドン→ブリュッセルアムステルダムブリュッセル→ロンドン→バルセロナマドリードパナマ→アルバ→キュラソー→アルバ→パナマ→ヒューストン→ダラス・フォートワース→ロサンゼルス→成田

 

 

ステイ先家族

アメリカに上陸した私は、9年前に知り合ったシスターの家に転がり込んだ。(旅行記を書き始める前に、彼女について1つの記事にしたので、だれ?という方はそちらを読んでからだと関係性が分かりやすい。)

 

serenita.hatenablog.jp

 

シスターには姉が1人、そして妹が2人、弟が2人いる。全部で6人きょうだい。姉は一人暮らしをしているので、この家にはいないが、他の子たちはみんなここで暮らしている。一番下の弟はまだ6歳。そして彼女の娘も忘れてはいけない。控えめに言って、賑やかすぎる家族だった。

弟2人、年はかなり離れているけど仲良し。

 

深夜のハンバーガ

私がステイ先の家に到着したのは深夜2時。もう嵐は去ったようだった。

 

飛行機で食事が出ずに空腹だったため、帰宅途中にファストフード店に寄った。何てお店だったか全く記憶にない。驚いたのはテイクアウトの方法。ドライブスルーのように車の中からオーダーし、指定された番号が書いてある駐車スペースに車を停めるだけで、店員が商品を車まで持ってきてくれるという究極の便利(?)システムが確立していた。後日別のパンケーキ屋でも同じだったので、アメリカでは一般的なようだ。

 

超巨大バーガー(このお店のは、普通のアメリカンサイズよりも大きかった)に超巨大のスプライト、ポテトが登場し、シスターと一緒にベッドに座って食べた。食べている時間も食べている物もその大きさも、全てが罪深い。初日からこれはしんどいと思いつつ、アメリカだな〜と納得してしまう。

 

あまりにも疲れていて、電気を付けたまま朝まで眠っていた。パナマアメリカのテキサスは同じタイムゾーンなので、時差がない。時差がない移動は楽かと思ったが、そうでもなかった。

 

文明の恵み

翌日、私が真っ先に行ったのは洗濯。私は2週間以上前のイギリス以来、洗濯機という文明を使っていない。スペインではコインランドリーを探そうとしたが面倒で、パナマでは家にまともに使える洗濯機がないので、ずっと手洗い。バケツに取り付けると洗濯機っぽく水流を作ってくれる便利グッズをママさんが貸してくれたが、あれほど役立たずな発明はない。一瞬で取り外した。アルバやキュラソーのエアビーにも洗濯機はなかったので、手洗い。こうして私は2週間以上も洗濯おばさんをしていた。

 

も〜う限界限界。アメリカでは文明の恵みを享受させていただこう。

 

シスターに案内してもらった洗濯ルームは、アメリカンな柔軟剤の匂いがした。良い匂い。一時期この匂いを探してドンキに通い詰めたことがあった。結局どの柔軟剤を使っても、日本ではあの匂いを再現できなかった。なんでだったのだろう。

 

溜まった衣類を洗濯機にぶち込み、灯油タンクのような容器から、洗剤をタプタプと注ぐ。

 

終わったら乾燥機。日本では乾燥機を使わない生活をしているので、Extraな文明の享受ではあるが、使わないわけがない。アメリカには柔軟剤の代わりに、ドライヤーシート(Dryer sheets)というものがあり、乾燥機に服を入れる際、一緒にそのシートを入れるだけで柔軟剤の役割をしてくれる。(日本でもAmazonで購入可)

 

洗濯後の服からは大好きなアメリカンな柔軟剤の香りがした。幸せ〜。乾燥機は消費電力が大きくて環境に悪いけど、いつか「乾燥機がある生活」をしてみるのも夢だったりする。

 

ちなみに中南米は手洗いを覚悟していたので、洗濯グッズを持参していた。洗剤(小分けのボトルに入れて)、洗濯ネット、洗濯バサミがたくさん付いたやつ…(なんて言うの?)(無印で買った物をずっと使っていたのに、今回帰国途中に破壊された^ ^)この3つは洗濯三種の神器と呼ぼう。

 

ついでに、

\ 意外と知らない(?)洗濯英語 /

洗剤:Laundry detergent(「洗剤」がDetergent)

柔軟剤:Fabric softener(英語を聞いて初めて柔軟剤は香りのためじゃなく、ふわふわに仕上げるためにあると知った。)

 

洗濯の後シスターと近くのアウトレットストアに出かけ、ショッピング。出かける前にシャワーを浴びると、ちゃんとお湯だった。ありがとう文明。でも日本のように1度単位で温度を調節することはできないし、シャワーヘッドは動かないし、水圧は弱いし。まあ日本より優れた水回りに出会うことはきっとないんだろうけど…。

 

アウトレットストアではMacのリップが7$で買えたりするからお土産にオススメ。アメリカはとにかくマテリアルな物に溢れる国だなあと感じる。

時期的にイースターだったけど、このヒゲの長いやつってクリスマス以外にも登場するのね…

待たない世界線

この日の夜、私は別のアメリカ人の友人と合流し、夜ごはんを食べに出かける予定があった。夜7時に家に迎えに行くね!と言われ、現在6時。「7時ってことは、8時くらいから準備始めれば良いよね〜まだまだ時間あるな」と思い、ベッドでスマホをいじっていたら爆睡していた。部屋に来たシスターに起こされ、時計を見ると6時40分。え?なんで?まだ6時40分だよ??と若干不機嫌な私に、シスターは「もう友達来るよ!!支度しな!!」と言う。渋々ヘアアイロンで寝癖を直し、靴を履いていると、友達からメッセージが来る。

 

「家に着いたよ!」

 

え。

 

時刻は7時5分前。なんで??早すぎない?

 

あ、ああ、あああ、ここアメリカ、、、

 

ここがアメリカであるということ、そして私の感覚がラテンアメリカ化していることに、ようやく気が付いた。パナマでは約束の2時間遅れくらいに行くのがピッタリなのに。

 

まあ、この友達は私がアメリカに来ると知って、観光プランを送ってきたくらいとっても計画的な子。その性格もあると思うが、約束の時間がその時間として機能する世界線、待たない世界線が久しぶりだった。

 

昼にアジア料理屋に連れて行かれ、お腹がいっぱいな私は、せっかく友達と行ったレストランで1人ひたすらサラダを食べていた。その後飲みに行くバーを探していたが、昨日のストームによる停電が続いており、エリアの半分が営業していないという事態。改めてすごい日に来たもんだと思う。

 

次の日も同じ友達と待ち合わせをしてショッピングに出かけた。今回はシスターが運転して待ち合わせ場所まで連れて行ってくれたが、余裕の遅刻で謝る私。こんな調子だと多分日本には戻れないなと悟ったが、意外とすぐに適応してしまえるのが私の長所(?)。帰国してから友達との待ち合わせに遅れて行ったことはない(よね?)。

2次会のバー。お酒全然美味しくなかった!!!

言語に溺れる

環境に適応するといえば、こんな話もある。

 

私はパナマ最終日まで、日本人と日本語で会話していなかったため、突如現れたMちゃんと日本語で話すことに違和感を感じた話は2つ前の記事に書いた。それだけ英語とスペイン語に囲まれる生活をしていた。

 

アメリカでの生活も1週間ほど経ったころ、今度は夢が完全に英語だった。これはよく留学すると起きる現象で、パナマに留学している時にはスペイン語の夢を見たし、元カレアメリカ人と付き合っていた時は何回か英語の夢を見た。だが何度経験しても不思議な感覚。起きた時に、「あ…夢か…」と思うその言語と、自分が今までいた夢の世界の言語が全く違う…。どちらも私の頭の中の言葉なのに、2人目の自分がいるような、そんな感覚。

 

他言語で夢を見ることは特別な感じがして、どんな夢でもその日をワクワクして始めることができる。この時だって、忘れてしまったけど怖い夢だった。でもとってもツイてる気がした。ついでに私は夢を滅多に見ない人間なので、夢を頻繁に見るタイプの人だったらな〜と思ったりもする。

 

すっかり海外生活に溺れてしまった私でした。

 

友人がくれたレモンオレオ。昔アメリカには色々な味のオレオが売ってたけど、今は昔ほどなかった。その中でも大好きだったのがレモン味。すんごい美味しくてクセになる味!!