Serenita

感情の消化。

【世界一周】#37 大好きな人たちに会いに行く旅 〜アメリカ編ヒスパニック②〜

今回の記事の大枠(大文字部分)

羽田→シンガポール→ロンドン→ブリュッセルアムステルダムブリュッセル→ロンドン→バルセロナマドリードパナマ→アルバ→キュラソー→アルバ→パナマ→ヒューストン→ダラス・フォートワース→ロサンゼルス→成田

 

さて、今回もヒスパニック特集をお送りしたい。

 

大家族のヒスパニック

早速だが、ヒスパニックの人たちは大家族という特徴がある。例えば、Eは6人兄弟なので立派な大家族。Eの姉は別の州で暮らしているので、一緒に暮らしている人数としてはマイナス1人だが、Eには娘が1人いるので、プラマイ0の6人、そこに両親を合わせて8人暮らし…。っと、ここまではまだ理解の範疇。

ここからが本題。8人暮らしかと思いきや、血のつながりのない女性も1人、この家で暮らしていた。この女性は私と同い年で(最終日にそのことを知った!)、メキシコのEの実家のご近所さんで昨年アメリカに移住し、家を借りられるお金が貯まるまでここに住むらしい。全く英語が話せない彼女はファストフード店で働きながら、Eの娘の面倒を(誰よりも、もはやEよりも)みて、部屋はないのでリビングで寝ていた。突然押しかけた私が1部屋使わせてもらっているのが申し訳なかった。ついでに書くと、みんなでアメリカ映画を見るときは、彼女のためにスペイン語字幕を付けるか、全員が理解できるスペイン語吹き替えで見るのだが、私が来たことで彼らは私のために日本語字幕を付けてくれようとするので、彼女への申し訳なさが2倍増しだった。

 

ある時彼女と2人でスーパーへ行き、セルフレジで会計をしている時に、バーコードがくしゃくしゃになって読み取れないものがあった。彼女は英語を話すことができないため、私が店員と話し(結構面倒な過程を経て)解決したのだが、その時に片言の英語で「ありがとう」と言われた。それでも彼女への申し訳なさは帰国するまで蓄積するいっぽうだった(苦笑)

スペイン語吹き替えで見ているので、私のために英語字幕を付けている。別案件なので長くは書かないが、スペイン語吹き替えは本当にひどくてスペイン語学習者からは評判が悪い(笑)

話は戻るが、ラテンアメリカの人はとにかく人に優しく、人を大切にする。たとえ血が繋がっていなくとも、大切な人は家族同然の扱いをするから「家族」と呼ぶ範囲が大きい。私が今回アメリカに行くと言ったら、「好きなだけいな」と言ってくれるわけである。なんなら、「大学を卒業したらこの家で一緒に暮らそうよ」と言ってくれる。そんなラテンアメリカ人の心の広さが大好きなのだ。

 

彼女が言うに、いとこは100人を超えるらしい。(ほぉ…。)

 

さて、Eはメキシコ在住のメキシコ人と付き合っている。(Eがメキシコに帰省中に出会ったらしい。)2人は結婚する予定なのだが、Eはアメリカ国籍のため、いわゆる国際結婚ということで、法律上の結婚はそう簡単にはいかない。お相手のビザを申請してすでに1年以上経過している。Eはこう言う。「彼をアメリカに呼べば、彼の家族により良い生活をしてもらうことができるの。」さらに、そのお相手はEの前に付き合っていた人との間に2人の娘がいるのだが、Eはその娘とその元カノ(と呼ぶのが適切かは知らないが)の分のアメリカビザも申請するらしい。Eは、アメリカに来れば、全く違う人生を生きることができるから。可能性と選択肢を増やしてあげたいの。」とも言っていた。

 

ヒスパニックの数が著しく増加しているというが、その現実を目の当たりにした気がした。アメリカに移住したヒスパニックはこうやって、まだ母国にいる大切な人たちに「より良い生活」を恵む。自分がここまで来れたのは先人のおかげだから、今度は自分が還元する番なのだと。先にアメリカに移住した責務を果たすかのように。

 

母国に対する思い

ここまで聞くと、アメリカでの生活に満足しているように思われるEだが、実は頻繁にメキシコに里帰りしている。飛行機で行くときもあるが、車でただひたすらにメキシコまで走ることも。ちなみにEの家の車はメキシコのナンバープレート。(陸続きのラテンアメリカでは、他国のナンバープレートでも走れるように必ず国名が書いてあるのには驚いた。日本ではまず考えられない。)10歳まで過ごしたメキシコは、Eにとって忘れられない故郷なのだ。アメリカは銃の事件が多い、ろくな国じゃない。人々は分断されている。」と言う。

 

一方で、アメリカで生まれ育ったEの下のきょうだい2人や、当時は幼すぎてメキシコで暮らしていた記憶がない弟は、メキシコに全く興味がない。危険そうだから行きたいとも思わないらしく、今まで1回も両親や姉らの帰省について行ったことがない。「私はメキシコ人というより、アメリカ人だと思う」と言っていた。このきょうだい間のギャップに驚いてしまう。

 

メキシコ流の生活

Eの家族が暮らすテキサス州は以前書いた通り人口の40%がヒスパニックである。そのため、街の中にはメキシカンモールがあり、メキシカンフードや伝統のドレスを売る店や、メキシコ流に格安でスマホを直したりする店が薄暗い少し古めの建物の中にひしめいていた。案内してくれたEの妹曰く、このモールにはヒスパニックの人以外来ないらしい。後日「普通」のモールにも連れて行ってもらったのだが、ツルツルのタイルに明るい照明のもと、H&MやVANS、NIKEといった誰もが聞いたことのあるグローバルブランドが並ぶそのモールとは全く異なる。もちろん店員もヒスパニックで、スペイン語で話す。

メキシカンモールの飲食店。メニューも全てスペイン語

ある時Eの大学に連れて行ってもらった。そこで紹介されたEの友達は皆例外なくメキシコ系のヒスパニックだった。だから会話の半分はスペイン語だし、メキシコの話題で盛り上がる。よく、留学すると日本人は日本人でかたまりがちとかなんとか言うが、日本人に限らずそれは当然のことなのだと思った。

 

Eの結婚予定のフィアンセもメキシコ人。メキシコには興味がないと言っていたEの妹の彼氏もまた、メキシコ系のヒスパニックだった。

 

Eの父はメキシコ料理屋で働き、母はメキシコ料理を売って生活している。彼らは英語がほとんど話せないと書いたが、ヒスパニックコミュニティを対象にした商売を行っているからこそ、アメリカで約20年間英語を使わずに生きてこれたのだ。

 

また、Eの家に行って最初に驚いたのは、トイレットペーパーを捨てるゴミ箱があることだった。ラテンアメリカにはトイレットペーパーを捨てる巨大なゴミ箱がトイレに設置されているのだが、私はアメリカに到着し、空港のトイレにゴミ箱がなくなったことで、ここがアメリカであることを実感していた。なのにこの家にはそのゴミ箱があるではないか。Eにそのことを聞くと、「いや、ペーパーは流しても大丈夫よ。」と。「私たちはメキシコでの生活が長いから、ペーパーを流すことが心配なの。捨てる方が安心する。」とのこと。なるほど。トイレもまた、ラテンアメリカ方式なのであった。

そんなこんなで、ここはメキシコなのか?と日々思いながら生活する私が、ああやっぱりアメリカだと感じたのはウォルマートくらいである。

ここまで書いたように、ヒスパニックは移住先のアメリカで、独自のコミュニティを築いて生活していることがよく分かる。そしてその生活様式もまた、母国に合わせたものであった。これでは確かに「同化しないメキシコ系移民」と言われても返す言葉がない。しかしメキシコ系移民の立場としては、あくまでもこの地はメキシコのものだったという言い分である。

 

私の記憶から抹消されかけている世界史を掘り起こしてみると、1830年代にアメリカはメキシコの領土を犯すようになり、一方的にテキサスの併合を宣言したことでアメリカ=メキシコ戦争が勃発した。この戦争に負けたメキシコは、カルフォルニアニューメキシコを譲渡することになり、今でもメキシコ人の心にはこの時の屈辱があるんだとか。「ここは全部メキシコのものだったのよ。」と真剣な眼差しで言うEの気持ちが分かる気もする。

ここもメキシコだったと思うと、プスッとささっている星条旗が、なんだかあるべくしてささっている気すらした。

日本人が海外に移住しようと考えるとき、言葉の問題や習慣の違いを一番に心配すると思う。でもヒスパニックの人たちにとったら、言葉の壁や、文化の違いなど大した問題ではないのかもしれない。彼らは自分たちの文化や歴史、言葉に対するリスペクトが強く、それらを通して自分たちに自信を持っていた。自信がある人たちはキラキラして見える。異国で堂々と生きる彼らはすごく素敵だった。

 

そしてもはやアメリカについて知りたいと思った時、彼らの存在を無視することはできないのだと感じる。その意味でもスペイン語を学ぶことには価値がある。ヒスパニックに関する本を読み漁り、彼らについてより専門的に理解したいとも思う。

 

 

以上、私が2週間弱ヒスパニックの家族と暮らして感じた、彼らの生活、人生観についてである。つらつら書いただけだったのでつまらなかったら申し訳ないのですが、次回はアメリカの大学に潜入した時の話を書きたいと思う。(あれ、もう8月も終わりに近づいている?)