Serenita

感情の消化。

【高校留学】#2 キラキラの海外生活?!

そんなわけで始まった私の留学生活。

 

※長くて読みにくい気がしたので目次をつけます。

 

 

 

オリエンテーション

到着後2日間は、世界各国から留学してきた仲間と共に、ホステル内外でオリエンテーションを受けながら、ビザなどの事務的な手続きを行う。数日とはいえ、ホステルでの生活は愉快で、孤独な「留学生」という繋がりだけが、絆を深めてゆく。

 

3日目にそれぞれホストファミリーの家に散った。私の場合、ホストファミリーがホステルに迎えにきてくれることになっていたのだが、待てど待てど来ない。この時私は、この国の人々の、時間感覚の狂い度をまだ知らなかった。予定の時間を2時間、3時間過ぎても来る気配はなかった。

 

 

ホストファミリー

私のホストファミリーは当時40代のママと、彼女の年上の従姉妹2人。私はホストマザーのことを「ママさん」と呼んでいたので、このブログ内でもそのように表記する。(あ、あとでかくてうるさい、わりと苦手だった犬、Sparky[スパーキー]) 

 

ママさんたちは生まれも育ちもパナマだが、両親がジャマイカ出身の移民のため、英語が第一言語である。家の中では英語を使い、外で純粋のパナマ人(…という言い方はおかしいが)と会話するときにはスペイン語を用いる、英語とスペイン語バイリンガル。(羨ましい)

 

ただ、ママさんのように英語圏にルーツを持たないパナマ人は英語が苦手。ママパパ世代になるとほとんど会話ができない。意外だった。世界中で英語ができないのは日本人くらいだと思っていたから驚いた。そして「英語ができればどこでも生きていけるっしょ!」と、楽観的な考えでいた私を苦しめた。

 

ついでにカリブ海の旧イギリス領の英語は独特で訛っているから、ほとんど何を言っているのか分からないこともあった。色んな訛りや色んな人の英語を聞いたことで、今ではアクセントの強い英語でもわりとすんなり会話ができるようになった気はする。

 

パナマについて

 

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今さらだけど知らない人も多いと思うので、パナマ共和国の基本情報。

 

面積:北海道よりもやや小さい

人口:422万人(北海道よりも少ない;北海道538万人)

民族構成:メスティーソ65%、先住民12.3%、黒人9.2%、ムラート6.8%、白人6.7%

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パナマを含めラテンアメリカには様々な人種の人々が暮らしている。場所にもよるが、特に白人は都市部に多く、ママさんを含め、大西洋沿岸には黒人が多い。また中華系を中心とするアジア系も多くおり、沿岸部にはアラブ系やインド系の人々もいる。そしてカリブ海に浮かぶ島々に暮らす先住民の人々を見かけることも稀ではない。先住民の人々は私たちと同じ東アジア系の顔立ちをしていて、伝統衣装を着ていることが多い。スマホを持って首都のモールなんかで買い物をしている先住民の姿を見かけると、最初の頃はカオスな感じがした。

 

でも、このラテンアメリカの多様性は、私をラテンアメリカの虜にした理由の1つだ。そして生きやすさの理由でもあった。

 

 

キラキラな留学生活?!

私が住むことになったのはColón[コロン]というカリブ海に面する県。パナマシティからは車で1時間くらいで着く、パナマ第二の都市である。(下の図、小さくて分かりにくくなってしまったけど、「住んでいたあたり」と書いてあるところ)

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※ちなみに3年前、島に行ってきた話を書いたと思うけど、その島は一番左のコスタリカとの国境のところ!ボーカスデルトロ!こんなところにあるんです。一応リンク。

#11 パナマ旅行記3日目 ボーカスデルトロ - La vida de Serenita

 

出発前、ホストファミリーが決まってすぐにコロン県についてGoogleで検索してみた。大して情報は出てこなかったので画像検索。

 

青い空に青い海。

 

しかしそんな美しい背景の手前に写る建物や街は信じられないほど荒廃していた。検索ワードを変えて調べると、「中米一危険な街」とか「帰ってこれたら奇跡」という文字も見たし、街に銃を持った軍隊が立っている写真もあった。当時外務省の危険度レベルは、パナマシティーがレベル1の「十分注意してください」の中、コロンはレベル2、「不要不急の渡航はやめてください」。

 

実際にこんな感じ。

 

!?

 

いやいやいや、留学生活は、アメリカのスクールドラマで見るような、キラキラなはず!海が近いから毎日サーフィンに行ったり、ビーチで夕焼けを見たり、常夏ライフを楽しむの!

 

と、憧れだけが膨らむばかりで、上記のような情報があるとはいえ「行ってみないと分かんない!」ということで、検索することをやめた。

 

若さって恐ろしい。

 

ホストファミリーの住所をGoogleストリートビューの機能で検索してみることもできた。しかし当時(今もかな?)コロン県はストリートビューのサービス対象外。それになにより、パナマの家には一軒一軒に住所がないため、検索しようにもできない。

 

 

お家は平家で、入れ子の構造になっていた。一番外側は高いコンクリート塀で囲まれている。玄関は普通のドアと、その外側に鉄格子のドアが付いていて、さらにその外側(入れ子の一番外側)に鉄格子のドアがある3重構造。これはパナマの一軒家に共通する構造だった。

 

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周到な家の構造を見て、一瞬「不要不急の渡航はやめてください」の文字が頭をよぎったが、それよりも私が絶望したのは、エアコンがないことだ。熱帯雨林気候のため、年中気温も湿度も高い。暑がりの私にとったら大事件。

 

しかしそんなこともまた朝飯前、みたいな壁にぶち当たった。

 

シャワー問題

家に着いたのは夜だったので、早速シャワーを浴びようとしたとき。

 

バスルームに入り、赤いマークのついた蛇口を捻ってみる。水だ。時間がかかるのかも、と思ったが、何分待っても水しか出てこない。あれ、青いマークの方かな、と逆の蛇口も捻ったが水しか出てこない。仕方がないので、一旦バスタオルを巻き、ママさんに聞くことに。

「ねえねえ、お湯ってどうやって出すの?」

するとママさんは、一言、

「お湯?電子レンジ使う?」

 

電子レンジ???????

なぜ??????????

 

状況が理解できなかった私。そう。パナマでは都市ガスが普及していないため、給湯器が付いている家は非常に稀だったのだ。

 

この日から私の冷水シャワー生活が始まったのである。夜や雨の日はそれなりに気温が下がるため、「常夏なんだから丁度いいじゃん」って話ではない。

 

シャワーだけではない。フライパンやお皿を洗うのも水。

 

幼い頃から、「汚れはお湯で落とす」と言い聞かされて育った他称「潔癖症」の私にとって、冷水で流したフライパンの油は取れてない気がしたし、髪の毛もいつもよりパサパサな気がした。最初の頃は違いを受け入れようと必死で、自分の気持ちを押し殺していた。だから本当に辛さを実感したのは1週間、2週間した後だったと思う。冷たいシャワーを浴びながら、ふと思い出す、日本では当たり前の「お湯の」お風呂の時間。(お風呂と言ったらお湯なわけで、むしろ冷水の時に「水風呂」と形容するほど、お湯なのは当たり前なのだ。)

 

「海外ではお風呂に浸かる習慣がないから、シャワーだけの生活はしんどいよね〜。」

 

よく聞く話。でもそんなんじゃない。お風呂どころかお湯が出ないんだから。

 

聞いてない聞いてない。

 

でもモールに行けば日本でもお馴染みのLUSHがあり、何種類ものバスボムが売られている。ちなみにこれは常夏のパナマZARAでマフラーが売られていたのと並ぶ、パナマ2大不思議。

 

パナマ人は朝出かける前と夜の1日2回、シャワーを浴びる習慣がある。私が「日本人は朝はシャワーを浴びないよ」と言うと不潔そうな目をされ、「学校に行く前に浴びなさい!」と言われた。いつか書くが、パナマの学校は始まるのが異常に早い。そのためシャワーを浴びるのは朝5時。気温は23度前後である。そんな中冷水のシャワーを浴びたら目覚ましどころか、6月の寒い日に入らされたプール授業の時のように、歯のガタガタが止まらない。ということで最初の数日を除き、朝のシャワーは浴びたフリをすることにした。それを学校の友達に言ったら、やっぱり不潔そうな目で見られたけど。

 

続く。

 

【参考文献】

国本伊代編著、パナマを知るための70章 第二版、2018年、明石書店

(使われているデータは2010年の国勢調査に基づく)

 

 

【高校留学】#1 田舎と数1と大切な人たちとの別れ

今からもう7年前の2015年、16歳の冬。私はニューヨーク行きの飛行機の中で涙が止まらなかった。手にはスマホともらった手紙を握りしめて、他の乗客が寝静まっている中、1人で読書灯を付けて、ほとんど号泣していた。目の前のモニターが今カナダ上空を飛んでいることを示している。もう後戻りができないところまで来たことをその時初めて実感し、突然とてつもない恐怖感と不安感に襲われた。

 

 

雪国育ちの私の南国行きが決まったのは、出発数ヶ月前の秋ごろだった。だから正直何の用意も実感もないまま、もちろん言語だってほとんど勉強しないまま、気づいたら飛行機の中だった。

 

出発の数日前に受けた定期テスト。クラス40人中38位。数学のテストで一桁の点数(もちろん100点満点中)を取ったおかげで教務室に呼び出しを食らった。一桁は初めてだけど、それまでも10点代だったから、まあいずれこうなるとは思ってた。学年末試験を受けられない私は、その時点で数1の落単を伝えられた。イライラはしたけど、特に焦りはしない。とにかくこの世界から逃げ出したかった。嫌だった。何もかも。

 

帰り道。一面の銀世界を走る電車の中、ぼーっと窓の外を見ながら考え事をしていた。寝ていたわけじゃない。でもすごくすごく疲れていて、気づいたら降りる駅を逃していた。慌てて次の駅で降りたけど、田舎の路線は駅の間隔が広い上に、自分が使う駅以外は知らない場所だ。おまけに周りは田んぼしかない無人駅。次の逆方面の電車は2時間後で、最寄駅まで迎えに来てくれていた母に事情を伝え、この知らない駅まで迎えを頼んだ。電話越しに母は激怒していた。口喧嘩になり、次の日から最寄駅までの迎えが来なくなった。家は駅から歩いて30分くらい。雪が降り積もった道は歩きにくいし、コンビニ1つもない、ただただ真っ暗な道。

 

早くこんな田舎抜け出したい。

 

出発の前日も呼び出しを食らった。夜7時過ぎまで教務室。でも解放される喜び、もう1年間はこの学校を見なくて良いと思うと嬉しくて嬉しくて。ドキドキしながら私がいた痕跡を一切残さないように、ロッカーの荷物を片付けた。ずっと思ってた。ここに私の居場所はないって。

 

何で高校に通っているのかも、何のために勉強しているのかも分からなくて、You Only Live Onceなんじゃないのって。明日からは好きじゃないことに人生の時間を使わなくても良いと思ったら、寂しさなんて1ミリもなかった。例の乗り過ごしの件で母とも口を聞かなくなっていたけど、そんな窮屈な生活とも明日でお別れ。

 

出発前日の深夜になって荷造りをした。全く知らないその国は常夏らしい。同じ地球上で2月に夏の国があるのかと、にわかに信じがたかったが、タンスから夏服をあるだけ引っ張り出してぎゅうぎゅうに詰め込んだ。

 

学校では両手で1人で持ち帰れないほど大量のお別れプレゼントをもらっていた。1つ1つ見る時間もなく、そのままリュックや手提げ袋に詰め込んだ。(実はお菓子などはほとんど家に残して母や妹が食べました。荷物が入らなくて。ごめんなさい、私の友達(笑))

 

出発の日、母は空港まで行くよ、と言ったけど、例の件もあったので不機嫌な私は断った。新幹線ホームであっさりとお別れ。平日だったので友達もみんな学校だった。東京行きの新幹線は空いていたけど、デッキ部分でスーツケースに座って、SNSを更新した。

 

「明日からパナマに留学します✨🌴🇵🇦」

 

この時はまだ、1年間この国を離れる実感も湧いていなかったからか、この小さな故郷を離れることに、何の寂しさも覚えなかった。不思議なくらい、日常だった。

 

✈️

 

CAさんが食事を下げて、機内の電気が消された。いつもの授業はいくらでも寝れるのに、この時は眠れなかった。

 

あ、大量にもらった手紙もプレゼントも開けてなかった。ふと思い出すようにかばんから1つ1つ出して開封した。仲良しの友達からもらった長文の手紙たちはもちろん、当時のクラスメンバーや、誰が声をかけたのか、中学の同級生が書いてくれた寄せ書きまで読んだ。そこで初めて、湧き上がる感情があった。

 

あの学校に、あの街に、私の居場所はあったんだ。私には帰る場所があるんだ。

 

そしたら急に涙が溢れて来て、

あれ、1年って長くない?

今から行く国って大丈夫なの?

危険じゃない?

インターネットがなかったらどうしよう。

帰ったら私って卒業できるのかな?

この前のテスト8点だったんだよ?

単位落としたから留年?

 

どうしようどうしようどうしよう。

頭の中が急に不安だらけになった。もう戻れないことがその不安を大きくした。

 

涙が止まるより前に眠っていて、着いたニューヨークは私の地元よりも寒い、マイナス17度だった。そこからは、聞いたこともない航空会社の飛行機を乗り継いで7時間。私が1年を過ごす国に到着した。

 

夜だった。空港を出ると急に季節が飛んでいて、もわっとした空気に包まれた。蒸し暑い。本当に夏なんだ。慌ててパーカーの袖をめくる。クラクションがうるさい。排気ガスとゴミと潮風が混じり合った臭いがした。それはいつか家族で行った東南アジアを彷彿とさせた。

 

ああ、ついに来てしまった。

 

空港からプログラムスタッフの人の車に乗る。車の窓から見えてくる沿岸に、ヤシの木が並んで、風に揺られていた。その奥に見える摩天楼。渋谷みたいな、ビルに付いている大きい電光掲示板が目に止まり、それですごく安心したのを覚えている。ああよかった。発展しているじゃないか。

 

飛行機の中の不安が一気に消え、新たな生活にドキドキワクワクが止まらない。田んぼのど真ん中の生活とも、数1とも、もうさようなら。

 

つい手首を握り、貼ってあった絆創膏に触れた。出発前、友達に「リスカみたい」と言われたけど、リスカじゃない。2、3日前にヒーターに触れて、手首を火傷しただけ。その絆創膏が思い出させる光景が、すでに懐かしく、随分前の出来事みたいだった。まだ傷は痛いのに。

 

こんなところに絆創膏貼っていたら、心配されるかな。ヒーターって言ったら分かってもらえるのかな…。そんなどうでもいいことを考えていたら、プログラムの管理するホステルについた。

 

なんとなくこの国で1年間やっていける気がした。まだ何も始まってないけれど。16歳、高校生の頃って、きっとそんなもん。失敗も後悔も怖くない。

 

私の留学生活が始まった。

 

 

 

⚠︎この留学ストーリーは、気まぐれに更新する予定です。他の記事が挟まることもあるけれど、よかったら😌🫰🏼

 

 

 

 

今更だけど書きたいこと。

私がブログを新しくしようと思ったきっかけの一つが、今更だけど高校生の時の留学生活について書きたいと思ったことだった。当時はど田舎で暮らす高校生の私の経験を発信する意味を感じなかったし、何よりそんな時間と気力がなかったけれど、今になってあの1年間は文字にして誰かに伝える価値があると思うようになった。

 

10ヶ月ほど前からスペイン語を本気で勉強しようと思い、都内の教室に通い始めた私。先生に「書きたいと思ったことを自由にスペイン語で書いて持ってきて。」と、まあよくある作文の宿題を出された。初め何を書こうかと迷ったのだが、メキシコ人の先生に、日本人の私が体験したラテンアメリカでの生活を伝えようと思い、"LA VIDA EN PANAMÁ "「パナマ生活」という何の変哲もないタイトルの作文を書き始めた。習い初めの頃、私のスペイン語力はメインの意味がやっと伝わるくらいで、小慣れた言い回しで細かいニュアンスを伝えることもできないレベルだった。小学校低学年くらいが書く、夏休みの日記みたいな、主語と述語が辛うじてある文。しかし毎回先生には面白いみたいで、これが意外にウケた。Funnyの意味とInterestingの意味で。たまに他の生徒に迷惑になるんじゃないかってくらい大声で大爆笑してくれた。毎週ノートに2ページ半ほど、単語数にしたら500ワードくらいだと思うが、パナマでのエピソードがどんどん書き足されていった。先生に、「セレニータ、センスあるよ。」と言われ、気づいたらノートが1冊終わった。

 

数ヶ月前友人から、あるエッセイ本を借りた。それはインドで生活をすることになった現役高校生が書いているものなのだが、彼女のインド生活で感じたことが素直に、高校生の目線で綴られていて面白かった。私はそのエッセイを読みながら、自分のパナマ生活と重ねた。そして懐かしい気持ちになったと同時に、高校生の彼女が、自分の経験や気持ちを誰かに伝えたい、発信したいと思い、自ら出版社のコンテストに応募した行動力を尊敬した。

 

実は私も留学して数ヶ月の頃、何かしらのアプリを使ってブログを開設していた。一緒に世界に飛び立った仲間の中で、ブログを始めることが流行っていたから、その流れに乗ってみたわけだ。でも実際に書こうとすると何を書いたら良いのか分からなくなり、結局数回日記のような文章を投稿してやめてしまった。特に文章を綴ることが面白くもなかった気がするし、誰も使っていないアプリに書き綴ったところで、何の意味があるのか分からなかった。もしあの時の私にアドバイスするなら、多分、文章は何を書けば良いか分からないけれど、とりあえず書いて書いて書き続けることが大切なのだと思う。ってことかな。

 

あれからもう6年が経つなんて信じられない。帰国してすぐの頃は、色んな人から留学の話を聞かれたし、クラスの前で話したりもした。でも高校を卒業してからはほとんど話してない。っていうか、聞かれたことがほとんどない(笑)前のブログに少しだけ、留学について書いたりしたけれど、それくらい。

 

私の文章力で、あの1年間の驚き、悔しさ、幸せ、悲しみ、何年経っても冷めることのない熱い感情を、おんなじ温度のまま活字を通して届けることは難しいと思う。でもスペイン語という、私にとっての第3言語でも人の心を動かせたなら、日本語でできないわけがない。

 

今更だけど、振り返ってみてもいいんじゃないか。

 

なんならむしろ、今ならどんなことでも包み隠さず話せるんじゃないか。

 

時効なんじゃないか(笑)

 

そんなふうにも思えてくる。

 

1つ前のブログで、人生の伏線について書いたけれど、これも伏線かもなってエピソードがあって。

 

小学生の時、将来の夢は小説家になることだった。でも動機は単純だったことをよく覚えている。

 

習っていた英会話教室で、変わった男の子がいた。同い年の彼は、英語ができて、頭の回転がとにかく速くて。当時同級生8人の小さな田舎の小学校に通っていた私にとったら、刺激的な存在だった。

 

ある時、「What do you want to be in the future?」と聞かれて彼は、「I want to be a writer. 」と言った。

 

Writer。そんな格好いい響きのものになりたい人なんて、私の周りにはいなかったし、やっぱり彼は頭がいいな、と思った。そのアイディア、盗も。と思った訳ではないのだが、その時から私の夢も小説家。Writerを"小説家"と訳すのかは別として。

 

彼のママから、彼の家は本で溢れていると聞いたが、私もそれなりに読書が好きだったのは事実だ。図書室の高学年向けコーナーにある、外国の推理小説を読み漁っていたし、新作が出るたびに東京の出版社にファンレターを書くくらい大好きな作家もいた。小学生の時の友達に会うと、「あの頃から読書好きだったよね」と言われる。学校でも家でも「小説家になる!」と公言していた。その思いを本物にするために、自作の物語を日記帳に書くようになり、それを小学校の先生に毎週読んでもらっていた。うさぎが森でレストランを始める話とか、よく先生も読んでくれたよな、という内容だったことは覚えてる(笑) あの時のノートが出てきたら面白いけど、多分もうないかな。

 

私の「小説家になる!」という熱はいつ消えたんだろう。確実に中学2年生ぐらいの時には消えていたはず。でも実は今になって、Writerになりたいなって思う。小説家なんて、大それた人にはなれないけど、ただ文章を書く人って意味の、Writer。Spotifyで音楽を聞いたり、YouTubeで動画を見るのと同じような、楽しい、面白いと思える時間を文章を通して作れたら。人の心を動かせたら。

 

だからあの時日記帳に書いていたうさぎの話は、きっと今のためにあったんだ。ああ、実家に帰ったら探してみよう、あのノート。

 

ちなみに数年一緒に英語を習ったその彼は、隣の市の教室に移動した。同じ市にすら住んでなかった彼とはもう一生会わないと思っていたのに、高校生になり、留学直前にもらった色紙の中に彼の名前があった時、私は目を疑った。彼は同じ高校の、私よりも頭が良い方の科にいた。まあ、直接会えたのは帰国後だったし、お互い大人になってしまったわけで、昔将来の夢を真似させてもらった、なんて話はできない。ついでに彼は小説家にはならなそうだ。

 

話は戻るけど、そんな感じで少しずつパナマ生活について書いていきたいなって。笑える話も重い話も。小学生の時よりはずっとずっとまともな文章で。

 

人生の伏線を回収する

昨年のことだったか、とある本で見つけた言葉。

 

「人生の伏線を回収する」

 

確かに。よくよく考えてみると人生は伏線と伏線の回収だらけな気がした。何気ない出来事が、後々の人生の核となっていることがあったり、その時には解消できなかった感情が、何年後かに解消されていることがある。

 

たとえば私のちょっと珍しい名前。

 

実家の棚の上で埃をかぶって寝かせられているアルバムたちの中に、背表紙に母の丁寧な字で、「19xx.x〜(私の生年月日)」と書かれているものがある。開くと、その最初のページに生まれた時の私の写真が貼られていて(全然可愛くない)、その下に両親から手書きのメッセージが書き綴られている。

 

『〇〇(私の名前)には、スペイン語で「穏やかな、平和な」という意味があるそうです。』

 

父の辛うじて読める汚い字でこう書かれている。

 

中学生の時だったと思う。初めてこのアルバムを見つけ、父の言葉を読んだ時、へー。と思った。名前を(珍しいから)男子にいじられた時、思春期の私は少し気にして、普通の日本人の名前の妹を少しだけ羨ましがった。外国に行くと100%通じる名前だから、高校生の頃からはほとんど気にしなくなったけど。

 

そんな高校生の時、中南米の知らない国に留学をした。私の第一希望ではなかったその国はスペイン語圏。それまで何の縁もなかった、1ミリも知らないスペイン語という言語を0から勉強することとなった。

 

留学中、

 

『本当に可愛い名前!その名前、スペイン語で「穏やかな、平和な」って意味があるんだよ』

 

出会う人出会う人、みんなに言われた。

 

うん、そう。知ってるよ。

 

 

でもあのアルバムに写る小さな私は知らない。自分の名前の意味も、将来スペイン語を勉強するようになることも。

 

私は、偶然スペイン語の名前を付けられ、スペイン語圏に留学することになった。ちゃんと名付けられた意味を探すように、スペイン語を勉強することとなった。スペイン語で見える世界が大好きになった。

 

偶然だけど偶然じゃないのかもしれない。15年かけて伏線は回収された。「運命」とも言うのかな。

 

 

話は変わるが、「看護の資格を取ることにした」と人に言うと、間髪入れずに理由を聞かれる。それはまた、いつかの機会にじっくりと書くけれど、ここからは少し今につながる話。

 

二十歳の夏に、大好きな中南米を旅行しようと、成田空港からメキシコを経由するフライトに乗っていたときのこと。14時間もかかるその便は、搭乗客ほとんどがメキシコ人だった。確か太平洋上空を飛んでいる時だったと思う。アナウンスが流れた。

 

「機内で体調が急変したお客様がおります。お客様の中に医療従事者がいらっしゃいましたら客室前方までお越しください。」

 

多分こんな感じ。今まで数えきれないほど飛行機に乗ったことはあるけれど、こんな経験は初めてだった。ざわつく機内。前の席に座っていたガタイの良さそうなおじさんが席を立った。一緒に来ていた家族が何か声をかけている。その後も2〜3人が細い通路を歩き、機内前方へと向かった。

 

私はその様子をじっと眺めていた。私の席は後ろの方で、どこで処置が行われているのかさえ分からなかった。ただ、もしここに、看護師である私の母がいたらどうしただろうかと考えた。もしかしたら急病のお客さんを助けようと名乗り出たかもしれない。

 

だが、母は英語すら話すことができない。

 

さっきのアナウンスは、スペイン語、英語、日本語の順に読まれていた。それは機内の乗客がほとんどメキシコ人だったからだと思う。私は程度に差はあれど3ヶ国語で全てを理解していた。でも理解していても、何かしたくても、医療知識がないから何もできない。スペイン語、英語、日本語、3回同じ情報が頭の中に流れた私は、何度も必死に呼びかけられている感覚だった。

 

母には看護の技術があるが、日本語しかできないから、あの場にいても何もできなかったかもしれない。それは言語を理解していても何もできない私と結果的には同じだ。残りの10時間弱のフライト中、隣で元カレが爆睡していても、私はずっと考えていた。私にできて母にできないこと。母にできて私にできないこと。言語ができて、それにプラスのスキルがあったら最強だな、とぼんやりと思ったのは、高校生の時に読んだ本の「自分を最大化させる」という言葉が頭をよぎったからかもしれない。(たまに言語だけできても…という議論になるが、私は言語ができることはそれだけで十分なスキルだと思っているので、そういうことが言いたいのではない。)

 

数年経った今でもあの時の気持ちが蘇る。別にこれがきっかけで「看護師になりたい!」と思ったわけでは全くないけれど、この時感じた無力感が今のためにあるのだとしたら、私はしっかりと伏線を回収している。いつかどこかで自分にも救える命があると信じて、あの夏のメキシコシティ行きのフライトを思い出す。

 

 

ちなみにその便は途中で引き返したり、行き先を変更することなく、ちゃんと目的地に着いたので、私は中南米旅を満喫することができた。

 

こんなことをふと思い出すのは基本、テストと実習で多忙を極めている時。眠い目をこすって起きているのに、開くのはノートではなくパソコンだ。文章化したい欲求を抑えきれずに書いてしまっているのです。

また1から書いてみる。今のこと。

めちゃくちゃ久しぶりに文章を書きたくて、ステッカーがベタベタ貼られた相棒歴6年のMacをカタカタすることにした。前から私のつぶやき(とは言えない長文)を読んでくれていた方には申し訳ないが、これからはこのページに私の日常を詰め込んでいこうと思う。

 

なぜ今までのページを使わなくなったかというと、実はあの中にアクセス数が抜きん出ている記事があり、「バズった」とまでは言えないが、放置しているだけなのに毎日それなりに読まれている記事がある。そうなると私が文字にして残したいと思ったことを気軽に書けなくなってしまった。

 

私のブログは開設当初、旅行記をメインにするつもりだったが、コロナで海外に行けなくなったことに加え、旅行記に限らず、なんでも書いて文字にして気持ちを消化していくことの良さに気付き、テーマがバラバラになっていってしまった。「ブログのテーマを決める」という当然と言えば当然の原則を見事に破っていたわけだが、これからはこのページに日々の出来事を詰め込んでいこうと思う。

 

 

雨ばかり降っていた4月、暑くなってきた5月が終わり、気付けば6月も半分をすぎた。

 

もしかしたら私が今何をしているのか知らない人もいるかもしれないので、一応現状を簡単に書くと、私は3月に4年制大学を卒業した。就職はしなかった。今私は看護学生をしている。

 

遡ること昨年の某日、入試を突破し、希望叶って今通っている学校に進学した。比較的短期間で国試の受験資格を得られるという効率的なカリキュラムが特徴の学校。しかしその分ハードなスケジュールである。ほぼ毎日朝から夕方まで授業があり、技術テスト前は放課後や昼休みにも練習を繰り返す。

 

一見充実した毎日を過ごしているように見えるが、最初はしんどかった。

 

友人に会うたびに、「どう?学校。」と言われ、「大変…?大変なんてもんじゃ…」と発狂したくなるのを抑えていた。去年合格を手にして喜んでいた私は、こんな毎日を想像していただろうか、と思うほど苦しい時期があった。

 

好きなこととやりたいことは異なるのかもしれない。

 

確かに私は、今勉強していることを活かした職業に就きたい。でも実際に学んでみると思っていた感覚とは違う部分も多い。学んでいることが好きになれない。楽しいと思えない。それがなによりもしんどいと思った。

 

今勉強していることは全て将来の職業に直結する。だからとてもpracticalに感じる。前の大学で学んでいたこととは180度異なる世界。この知識、この先の人生でいつ使うんだろう、もう一生この情報の引き出しは開けられないかもしれない、みたいな豆知識をひたすら学んでいた前大学での4年間がとてつもなく恋しい。人生において無意味なことほど贅沢なことはない、と誰かが言ってたっけ。今その意味が突き刺さるほどよく分かった。(単に生粋の文系人間というだけかもしれないが。)

 

もし進学しないで働くことにしていたとしても、きっと毎日朝から夜まで仕事なんだから頑張らねば、と思ったが、社会人になれば夜遅くまで勉強する必要はきっとない(と勝手に決めつけて申し訳ない。働いていればいるで日々勉強することだらけなのだと理解している。)。学生がきついのは、授業が終わった後も夜遅くまで机に向かい続けなければならないところ。土日は心行くまで遊んで気分転換、とはいかず、課題がしっかりと待ち受けている。定期的に何かしらのテストもやってくる。

 

そのほかにも色々あって、だから最初はしんどかった。就職すれば良かったんじゃないかって、後悔の毎日だった。タイムマシーンがあって、1年前の私に会えるなら、その道は間違ってるから!!!って頭に刻み込んでやるって思った。こんなにテクノロジーが発展した世の中なんだから、1年前の自分に会うことくらい明日にでもできるようになるんじゃないかって本気で考えるようになっていた。

 

でも後悔ばかりしていても仕方がない。正しい道とか、間違っている道とかないんだって、もう今までの人生で何回も思ったことじゃないか。選んだ道を正しくしていくしかないし、全部結局結果論なんだから。

 

絶対とは言い切れないけれど、きっと前みたいに退学することはしない。今やめてしまったら、負けたみたいで悔しいから。他の人にはできたことが私にはできないのが悔しい。それに私は結局真面目だから、これだけレールをはみ出してきても、なんだかんだ引かれたレールからはみ出す幅は最小限にしておきたい。だからどれだけ辞めたいと言っても辞めない、諦めない。

 

6月になり、今は少しずつだけど後悔する回数が減ってきている。慣れもあるのかもしれない。昨日まではできなかった何かができるようになる喜び、テストや演習での成功体験、そして共に学び、苦しみを共有する仲間が私を支えている。

 

あ、それから週末に会ってくれる、今までの人生で出会ってきた大切な人たちにも救われている。(ありがとう、大好きです❤︎)

 

来年の今頃の私も、再来年の今頃の私も、どこで何をしているのか想像すらすることができない。そして必死に演習を乗り越えた今日を思い出しながら、何を思うのだろう。でもそうやって、自分の将来を考えることが自分でも楽しみだったりする。

 

何歳になっても、自分で自分の将来を楽しみに思える人生を送っていきたい。

 

もうすぐ24歳。人生で大切にしたいモットーが増えた。

 

 

また時間がある時、言語化したい感情を綴るので、良かったら定期的に訪ねて読んでいただけると嬉しいです。こんな真面目な話だけじゃなくて、くだらない日々も記録するので。