Serenita

感情の消化。

外大を卒業した私が看護師を目指す訳

看護師になりたいと思い始めたのは大学2年生、コロナに社会が脅かされる少し前の秋の終わりだった。最初は「看護勉強したいかもなあ。」って、心にぴょこっと生えた芽程度。人生における重大な転機は、自分でも気付かないような、わずかな心の変化の積み重なりの結果なのだと思う。

 

そもそも国際協力を仕事にしたいと思っていた。きっかけはパナマに留学したことだった。まだあまりブログで触れたことはないけれど、パナマの学校で出会った友達が私のごみみたいな高校生活を変えてくれた。

 

パナマで初めてできた友達は、マリアというコロンビア人だった。と言っても4〜5歳の時からパナマで暮らしている。パナマにはコロンビアからの移民が多い。クラスメート40人中コロンビア系の子は知ってるだけで4人いた。パナマのお隣コロンビアは、紛争やドラッグという社会問題を抱え、貧困率は2020年の統計でも40%を超えている。様々な事情があるため一概には言えないが、マリアは貧困から逃れるためにパナマにやって来た。

 

彼女の波瀾万丈な人生を書き出したら何千字書いても足りないけれど、とても想像できるものではない。

 

マリアの家族はコロンビアでインフラが通っていない家に住み、物心ついた頃には彼女1人で数週間、飲み水だけで親の帰りを待っていた。パナマに移住することになり、コロンビアの空港で知らされたのは、父親はパナマに来ないということ。「母親に抱き抱えられながら空港で泣き叫んでいる記憶があるの」と言っていた。そしてパナマに来てからも母親は家を留守にすることが多かった。

 

私と出会った時、「今はママと2歳の弟と、ママの彼氏と住んでるんだけど、」と言っていた。ん?ママの彼氏???言ってる意味がよく分からなくて、聞き返した。「そう、私は嫌いだけどね。」

 

母親は次々に新しい彼氏を家に連れてきた。私と出会った頃もちょうど、新しい彼氏と一緒に住み始めた時だった。ちなみにこの男は私が日本に帰る数週間前に母親への殺人未遂で逮捕されるのだが、その話はまた追い追い。2歳の弟はこの彼氏の何人か前の相手との子どもだと言う。彼女は母親のことが大好きで、でも心に傷を負って生きていた。まあマリアを産んだ時、この母親はまだ14歳だった。私とマリアが出会った時でも30歳。恋愛をしたい年齢なのは分かる…。

 

その次にできた友達は親友であり、後に私の彼氏となった人。元彼の名前を書くのに抵抗があるのでCとしよう(笑)Cもコロンビア人だった。彼も彼の両親もパナマ国籍は取得せず、移民として暮らしていた。だから7歳の頃からパナマで暮らしていても、彼は留学生の私と同じ在留カードを持ち歩いていた。

 

Cの家族はパナマに来ても頼れる親族がいなかった。数ヶ月ストリート生活をしたのちに、中米1危険と言われていたコロン市のダウンタウンにあるスラムのアパートで生活し始めた。私と出会った時もスラム街に住む彼の家族は貧しかった。「貧困」と一言で言っても、どのような貧困か想像できないと思うが、彼らは例えば、数日に一回しか食事ができず、骨が見えるほど痩せているような生活はしていない。けれど例えば、車はあるのにガソリンを入れるお金がないので車は使えなかったり、電子レンジを持っていないので、私のホストファミリーが電子レンジを新調したときに何十年前の物かと思うような物でも欲しがったり、アイスやピザでも外食は滅多にできない、そんな生活。Cはクラスの中で最も貧困だったと思う。

 

そんなCのもう一つの問題は、前述したように彼がコロンビア国籍であることだった。コロンビアでは私が留学していた当時内戦が続いており、たとえ国外に住んでいようと男子は18歳になると徴兵されるのである。いつか起きるかもしれない戦争のための徴兵ではなく、今起きている戦争における徴兵は恐ろしい。Cと私が出会ったのは17歳になる年。彼には時間がなかった。

 

Cには腹違いの兄弟が何人かいたのだが、兄は徴兵され紛争中に一時安否不明となり、彼の従兄弟は兵役中に亡くなった。Cの父親はずっと軍人だった。足を痛めたことを機に軍を脱退し、パナマに逃げてきたわけだ。この戦争は1960年代から50年以上も続き、26万人以上が死亡したと言われているが、反政府軍と政府の間で和平合意が結ばれたというニュースが流れてきたのは私が日本に帰国してしばらくした頃だった。ああ、終わったのか。くらいの感覚だった。戦争の終結は平和の訪れを意味しないということくらい知っていたから。

 

私の日本の友達には「母親の彼氏」と暮らしている人も、徴兵に行くことを悩んでいる友達もいない。みんな勉強に部活に一生懸命で、理由がない限り停電も断水も起きない、帰る場所がちゃんとある。そして私もまた、そんな生活をしていた1人だった。だから突然突きつけられた世界の現実はすごくすごく重たくて、どうしたら良いか分からなかった。

 

(ここでテディベアを欲しがっていた女の子の話を書こうとしたのだけど、今回の趣旨とは若干違うからまた今度書く。)

 

世界には紛争や戦争に苦しむ人がいることも、スラムで暮らしている子供がいることも知っていた。もちろん日本にもいろっんな問題がある。でもそんな生活をしている人が、世界のどこかで生きている人ではなく、自分にとって大切な大切な人となった時、彼らに出会う前のような、何も知らないふりをして自分だけ平和に生活することができなくなった。

 

でも高校生の私には何もできなくて。大好きな親友の傷を癒せなかったし、好きだった人の生まれた国で起きている紛争の原因すらよく理解できなかった。もちろん、パナマ留学は楽しいことも山ほどあった。でもこういう、高校生にはどうしようもない現実を見たり聞いたりすると、悲しくて心が痛んで、ネットで色んなことを検索したし、どうしようもない時は日記にただひたすら気持ちを綴った。私に何ができるか考えた時思いついたのは意外と、今は勉強しようかなってこと。数1で100点とっても貧しい人は減らないし、私が良い大学に行っても紛争は終わらないけど、ね。

 

パナマに来るまで高校を辞めたいと思っていた私が、帰国した後はパナマでいなかった分の遅れを取り戻しながら、ちゃんと勉強した。学年をやり直さない選択をしたのは自分だから、その責任は自分で取らなきゃいけなくて。でもまあ、自分で書くのもあれだけど、私はこういう類の話に出てくるようなパリピJKだったわけではない、さすがに(笑)行っていた高校は普通に勉強ができる人が集まっていた高校だった、(と思う、)

 

1年浪人して第一志望の大学で世界のこと、特に南アジアの国々について学んだけど、やっぱり私にできることってなんだろうって悩んだ。マリアやCのような子どもを少しでも減らしたい、ただそれだけなのに、、。

 

そんな大学時代、私は色々なバイトをしていた。塾で働いてたことが今の選択の大きなきっかけとなった。

 

大学2年の時、担当していた受験生が看護学部を志望していた。沢山いる生徒の中の1人が目指す、沢山ある学部の中の1つ。最初はただそれだけなはずだった。

 

受験の近づく11月。私は体調が良くなかった。頭痛持ちで小さい頃から悩まされていたが、この頃それが悪化し、病院に通うことになった。様々な検査をしてもらい、後日検査結果をもらったのだが、アスタリスクがついているところが異常値だと書いてあっても、つまりそれが何を意味するのか分からない。

 

小さい頃からずっと頭痛に悩まされ、我慢してきたことも多いのに、自分の健康を自分で管理することもできなくて、それで良いのかなって思うようになった。実家にいた時は頭痛に限らず、体に不調が起きた時は看護師の母が何でもしてくれた。でももう母と一緒に住んでいない。

 

病院のお医者さんや看護師さんはすごく温かく、一緒に色んな治療法を考えてくれた。我慢してきたことも、痛みがひどくて何もできなくなることも、全て肯定された気がした。

 

バイトで塾に行けば、看護学部を目指してラストスパートの高校生がいる。この子も数年後には病気のこと、分かるようになってるんだもんな〜。そう思うと塾からの帰り道、母にLINEしたくなった。

 

「私もいつ使うか分からない言語なんてやってないで、医療勉強すれば良かったかもな〜。」

 

母からこう返事があった。

「外大卒業してからでも遅くないじゃん。外大は今行っておいて正解だよ。」

 

このLINEの結果、私は今ここにいる。

 

看護を勉強したいと思ったのは自分のため。だからこれは後付けだけど、医療でなら私が高校生の時に抱いた、苦しむ人々を救いたい思いを実現させられるかもしれない。実際には、医療で貧困は減らせないかもしれないし、紛争だってなくせないかもしれないけど、命は救える。大きなことはできなくても良いし、大金を動かせる権力もいらない。私はただ目の前にいた大切な人を救いたかっただけなのだから。その思いは今も変わっていない。

 

看護大学の入試時に提出した書類の中に、志望動機を書く欄があった。でも文字数は200字だったかで、すでに書いてきたように私の志望理由は200字じゃ全然足りない(笑)看護師になりたいと思った直接的な理由は後半の部分だけかもしれないが、私は前半の部分なしに説明できないと思っている。

 

私は話すのが苦手だから、人に聞かれて咄嗟に上手く説明できない。多分面接でも上手く話せなかったと思う。でもまあ、2022年が終わる前にせっかくだから書いておこうと思った、私の原点。

 

ちなみにマリアは今カナダで暮らしている。信じられない話だが、彼女は一時期一緒に暮らしていた母親の恋人で弟の父親でもある男性を頼って移住し、カナダ国籍を取得した。そしてパナマにいる母親と弟に送金しながら必死に働いている。

 

Cはクラスでトップを争うくらい頭が良かったが、経済的な理由から大学への進学はできず、ずっと働いていた。彼は私に「パイロットになりたい」と言っていたのだが、最近貯めたお金で航空学科のパイロット養成コースに通い始めた。もう恋人としての関係ではないが、彼が努力家で尊敬できる人だったってこと、私は一生忘れない。