Serenita

感情の消化。

【世界一周】#27 大好きな人たちに会いに行く旅 〜アルバ最終編〜

今回の記事の大枠(大文字部分)

羽田→シンガポール→ロンドン→ブリュッセルアムステルダムブリュッセル→ロンドン→バルセロナマドリードパナマ→アルバ→キュラソーアルバ→パナマ→ヒューストン→ダラス・フォートワース→ロサンゼルス→成田

 

今回は最強に長くなってしまったが、あまり知られていないアルバのもう1つの側面を書いてみた。

 

ティーヴンとの別れ

アルバ最終日の朝。この日は12時の飛行機のため、そこそこゆっくりもしていられない。

朝ごはん

荷物をまとめ、エアビーのオーナーさんに挨拶をする。食べきれなかったパスタや調味料、100mlを超える液体系は全てエアビーに寄付した。

 

ティーヴンを呼び出すと、お決まりの「10分以内に行くぜい」というセリフ。車内では、昨日私たちが必死に「RED FISH」というレストランを探し、歩いても歩いてもなかった話をしていた。ママさんが「Red FishだかBlue Fishだか知らないけど、そんなレストランなかったわよ!!」と言うので、おもしろくて笑い転げた(笑)

 

ちなみに日本に帰国後、空港でもらえるアルバガイドを見ていると、RED FISHというレストランが載っていた。ガイドに載るほど有名だった件。

 

そういえば、空港で配っている無料ガイドはキュラソーでももらえたのだが、裏面が思いっきり寿司屋の宣伝だった。もはやキュラソー料理でもなんでもない…。世界の果てでも日本食が食べられていることに感動してしまったが。

その名も「KYOTO」(笑)

空港に着き、スティーヴンといよいよお別れ。専属運転手のように扱い、彼の結婚&離婚人生、コロンビア人の彼女の話、そしてもちろんアルバの話、いろいろな話を聞くことができて楽しかった。世界の果てで出会った、聞いたこともない国の人の人生の一部になることができて、素敵な8日間だった。これこそ旅の良さ。

 

最後だから割引が効くかと思ったが、しっかり17$。(^^)/

 

ティーヴン、いつかまた。

友達割引が効かずにがっかりのママさん。彼と4人で撮った写真もあるのだが、どうせ顔は隠すので載せる意味ない気がしてこっちにした(笑)

さよならアルバ。

今回は来た時と同じ、コパ航空のカウンターに並ぶ。ディビディビとは異なり、すでに多くの人が並んでいた。だからといってこの人たちが全員パナマ人という訳ではない。この中には他のラテンアメリカ人や、アメリカ人だけどコパの方が安いからこちらを選んでいる人もいると思う。現に、前に並んでいた人はコスタリカ人だったし、英語が聞こえ、白人が多い印象だった。

 

出国審査はどうでも良いが、あれだけ100mlの液体はないかと確認していたにも関わらず、荷物検査でママさんが引っかかる。何かと思えば、お土産に買ったアルバ名産のマンゴーホットソースだった。350ml×2本。(おいおいおい。)

 

しかしママさんは引き下がらない(もちろん)。絶対に持って帰る!!!と空港職員に頼み込んでいる。「持って帰れないなら、あなたたち食べてね!!!まだ未開封だから!絶対!!捨てないで!!」と叫ぶ始末。空港職員は苦笑いでホットソースをゴミ箱の前に置いた。(わんちゃんガチであの人たち持って帰ったと思う。)

 

ラテンアメリカの島の空港だし、最強ママさんだからいけるかも、と一瞬思ったが、呆気なく没収。意外とその辺は厳しい。ついでにホットソース事件のインパクトがでかかったので、ほぼ忘れかけていたが、この時私は、なぜかランダムの薬物取り締まり検査に当たってしまい、1人別室に連行された(笑)そのおかげで、ママさんと空港職員のやり取りは途中からしか見ていない。

 

幸せな島の闇な側面

話は変わるが、アルバを去る前にこの話だけは書いておきたい。

 

実はアルバがどこにあるかと聞かれた時、1番簡単な説明は「ベネズエラのわき」と言うことである。実際、ベネズエラの港からアルバは30kmほどしか離れていない。30kmは新潟と佐渡を結ぶ最短距離と同じくらい。それなのに船や空路で結ばれていないのはなぜなのか。これは私が1番最初に抱いた疑問だった。

 

日本にいるとラテンアメリカの国1つ1つの特徴を捉えることは難しく、いっしょくたにしてしまいがちなのだが、ベネズエララテンアメリカの中でも悪名高い…

 

ベネズエラは石油が発掘され、オイルマネーで1970年代まで繁栄した国だった。しかし1970年代後半からインフレなどで経済が厳しくなり始め、2000年代に入る頃には大統領が「21世紀の社会主義」や反米を掲げ始め、独裁政権が始まる。

 

2019年にはインフレ率が260万%を超えるハイパーインフレとなり、通貨である「ボリバル」の価値はもはやないに等しい。インフレ率260万%というのは簡単に言うと、100円の物が260万円になり、260万円の貯金が100円の価値しかなくなることである。そんな札束を持ち歩くのも大変なため、政府はこれまでに合わせて14桁も切り下げるデノミを行なっている。

 

国連などからの支援を拒否したこともあり、国際社会から孤立。国民は更なる貧困に陥った。難民と聞くと中東あたりをイメージするが、シリア、ウクライナアフガニスタンに次いで世界で4番目に難民を生み出しているのはベネズエラであり、これまでに540万人以上が国外に逃れている。以前コロンビアとベネズエラ犬猿の仲であると書いたが、隣の国は変えられない。コロンビアは世界で2番目に多い難民受入国となっている。

 

さて、そんな国からたった30km沖合に浮かぶ「One Happy Island」。UNHCRによれば、2021年の時点でアルバに逃れたベネズエラ人は1万7000人に及ぶと言われている。しかし、オランダ政府がこの難民を歓迎することはない。2019年にアルバで難民申請をしたベネズエラ人は2000人以上いたというが、そのほとんどが拒否されている。観光業だけで成り立つ、この小さな島の島民の「幸せ」を守らなければならない。それがオランダ政府の考えである。

 

しかし拒否されたところで彼らには帰る国がない。だから政府に見つからないよう、アルバで不法移民として働くのである。身分を偽って。特にアルバは建設ラッシュであり、建築関連の仕事につく難民が多い。

 

だが、言語の壁もある。アルバの人々は基本的にはマルチリンガルである。政権が破綻しているベネズエラでは教育を受けられない人も多く、スペイン語のみしか話すことができない。しかもアルバ人同士の会話はパピアメント語。アルバに逃れたとしても、英語もオランダ語もパピアメント語も話せないベネズエラ難民は、アルバ社会から孤立してしまうのだ。

 

アルバのあのきらびやかな建物、カジノ、リゾートホテル、夜も鳴り止まない音楽は楽園そのものだった。でもその裏には、強制送還を恐れながら働くベネズエラ人の苦しみがあることを忘れたくないと思った。「One Happy Island」はベネズエラ人にとって悪夢の始まりなのである。

 

そんなわけなので、ベネズエラ政府はアルバやキュラソーとの行き来を禁止しており、たとえアルバ近海で事故や事件が起こったとしても、助けないスタンスを取っている。ディビディビエアで事故にあっても、なかなか助けがこないと私が言っていたのは、そんな理由があったからである。

 

パナマへのフライト

話を戻そう。パナマ行きの機内は来る時と同じようにほぼ満席だった。アルバの空港は滑走路が1本しかないのだが、キュラソーの時にも書いた通り、貿易風に逆らって西から東に離陸する。ところがパナマは西の方向にあるため、離陸したらすぐに180度旋回しなければならない。これがまあ、ものすごい揺れを引き起こす。ドンっというすごい音(何か爆発したのでは?というレベル)と共に座席ごと突き上げられ、私はもう恐怖で思考回路停止状態(再)だった。何度乗ろうと、何航空だろうと、飛行機はやっぱり恐ろしい。何より、貿易風の威力はすごい。

なかなか見る機会がないであろうパナマのパスポート

するとママさんは呆れた顔をしながら、手を出してくれた。メラニンが少ないため、他の肌より白い、ピンク色の手の平。その手を握ると本当に不思議なくらい一瞬で、不安や恐怖が消えた。一緒にいて世界一安心できる人だと思った。

大好きだ

途中のコロンビア上空は雪が積もっている山々や、広大な荒野が広がっていて、「世界は広すぎる」と思わずにはいられない。

こんなところが世界にはある…。

パナマ上空に来ると大きな船が何隻も見える。この光景こそパナマ。運河が一瞬見え、何度か旋回して着陸した。命は助かった。着陸後恒例の拍手がなかったので、やはり乗客のほとんどがパナマ人ではなかったのだと思う。(ラテンアメリカ人は着陸後に拍手しがち)

天気が良くないのだが、船舶がいくつも見える

パナマに帰国という名の再入国

ここでトイレに行きたすぎて膀胱の限界を迎えていた私は、飛行機を降りてトイレに猛ダッシュ。ママさんは今にも「道を開けてあげてください!!」と言わんばかりの表情だった。なんとかトイレにたどり着いたものの、パナマの空港は以前書いた通り発着便合同のため、トイレが大混雑。必死すぎて並んでいる時の記憶はない。

 

ちなみにトイレに行きたい時、よく英語では「I want to pee.」と言うが、スペイン語では「Quiero orinar.(キエロ オリナール)」と言う。音がかわいい。(私だけ?)まあ、よく使うセリフのため覚えておくと便利だと思う。

 

さて。ここからパナマ人のママさんたちと、私は別々の行動となる。私はもちろん外国人パスポートの方に案内されるのだが、これがまた行列だった。周りはいかにもバックパッカーな、巨大なリュックを背負っている白人ばかり。

 

私はアルバに行く前に一度、パナマに入国している記録があるわけで、そのせいで無駄に怪しまれた。「前回は何をしていたの?」「宿泊先は?」「知り合いがいる?その人の住所は?」「今回は何をしに?」「観光?観光ってどこに行くの?」と根掘り葉掘り聞かれ、なかなかスタンプを押してくれない。こちらもスペイン語で答えているため、ギリギリ通じているか通じていないか。職業を聞かれているところで、「Si(はい)」と答えて相手を混乱させた。私が永遠に出てこないのでママさんたちは心配していたらしい。

 

空港までドーナおばさんの、妹さんの、旦那さんが迎えに来ていた。日本で暮らしていたら、自分の兄弟の結婚相手を頼ることなんてなかなかない、というかできないと思うが、ラテンアメリカはそんなところが素敵だ。日本は相手に迷惑かどうかを考えるあまり、人を頼れない社会だと思う。大切な人はたくさんいたほうが幸せなんじゃないか。頼られるってそんなに嫌なことじゃないんじゃないか。ラテンアメリカに通い出してから、そんな風に思うようになった。

 

さよなら円。

この日私がさよならしたのはアルバだけではない。流石に現金がなさすぎるので、空港で換金することにした。再度みんなを待たせて換金屋に行く。ところがこの時のレートがめちゃくちゃ悪くて、本当に信じられなかった。

 

換金屋のお兄さんは優しい方で、「日本円は珍しいから、ここ以外換金できないよ。」と言ってくる。これが本当かどうか分からないが、誠実そうな彼を信じることにした。私はユーロを現金で沢山持っていたので、ユーロと円をドルにする。ユーロの方の記憶は全くないが、円は2万円出して、100$と少しにしかならなかった。確かにこの旅行中、かなりの円安だった。とはいえ、2万円で100$だと1ドル200円の計算になってしまう。溜息しか出ない。

 

その後空港のあるパナマシティから家があるコロンまで、ドーナおばさんの、妹さんの、旦那さんの運転で帰った。案の定私は爆睡していたが、これで旅が終わると思うと寂しかった。楽しかった思い出ばかり。ついでに早くブログを書きたくて、うずうずしていたのを覚えている。

 

長くなったので、この続きは次に書こう。

 

泊まっていたエアビー。すごくよかった。ただお湯が出ない。

 

【参考文献】

もしアルバに行く機会があったら、ぜひ1番最初の記事を読んでから行くと、違った側面からアルバを見ることができると思う…。

 

www.opendemocracy.net

www.jetro.go.jp

iti.or.jp

https://www.japanforunhcr.org/activity-areas/venezuela

↑UNHCRのベネズエラ難民に関するページのリンク